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2007年10月24日 (水)

千駄木庵日乗十月二十三日

午前は、父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は、母の御伴で診療所などへ。

夕刻、知人と懇談。

夜は、原稿執筆、木曜日の「しきしまの会」(和歌講座)の講義準備。

              ○

昨日に引き続き徳川慶喜のことを少し書いてみたい。徳川慶喜に尊皇心があったことは事実である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」「恭順謹慎」を行わしめたのである。

後年、慶喜はその心情を次のように語った。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。

徳川慶喜は、天皇に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうことはできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への忠誠心が明治維新成功の大きな原因の一つである。慶喜が維新後すぐに朝敵の汚名を取り除かれたのは当然であった。

 さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。鳥羽・伏見の戦いで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のように記している。

 「(慶應四年・註)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。

 徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力のみでは断じてない。それはわが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

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