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2007年10月31日 (水)

千駄木庵日乗十月三十日

午前は、父に付き添って病院に赴く。年老いた父が、これ以上苦しむことのないよう祈るばかりです。

午後は、上野公園にある東京国立博物館平成館で開催中の「大徳川展」参観。何故今頃こうした展覧会が開かれるのか、また何故「大徳川」なのか疑問もありますが、私が講師を務める萬葉集勉強会に来ておられる方から招待券を頂きましたので行ってみました。

徳川将軍家のみならず尾張・紀州・水戸の御三家そして各地の東照宮・輪王寺など徳川家ゆかりの寺院に伝えられる宝物が展示されていました。

武力・権力・財力にものをいわせてかき集めた刀剣、茶道具・武具・絵画・書・能面・着物・装飾品などが所狭しと展示されていました。大阪城落城の際、家康が部下に命じて探し出させた茶道具も展示されていました。何の事はない他人の家を焼き払って強奪した物ということです。「切り取り強盗は武士の習い」という言葉を思い出しました。

刀剣は国宝が数多くあり見事なものでした。私が驚いたのは、「千代姫婚礼調度・純金台子皆具」というもので、三代将軍・家光の長女が尾張家に嫁いだ時の純金の調度品です。豊臣秀吉の黄金の茶室と同じく成金趣味という表現がぴったりのものでした。

しかし家康などの将軍たち所蔵の仏典・漢籍も展示されていました。徳川氏が学問を重んじたこと、三百年近くの泰平の世をもたらしたことは事実です。

十四代将軍・家茂が、長州征伐出発の際、降嫁され御台所となられていた皇女・和宮さまに、凱旋のお土産として持ち帰る予定であったが、家茂が急死したため、和宮さまのもとに形見として届けられた「西陣織」が展示されていました。後に、家茂追善供養の袈裟に用いられたといいます。「空蝉の袈裟」と名付けられていました。

和宮さまの「空蝉の 唐織り衣 なにかせん あやも錦も きみありてこそ」(見事な織物もあなたさまがおられなくては何の価値があろうか、あなた様がおられてこそ価値があるのです、というほどの意)という御歌が添えられていました。これを拝して涙を禁じ得ませんでした。夫を心より愛し、夫のためにそして嫁ぎ先のためにつくすということが日本女性の道であります。

近代においては、韓国皇太子(李王家)に嫁がれた李方子様、満州国皇帝の弟君(愛新覚羅家)に嫁がれた嵯峨浩様もまさにそうした日本女性の道を実践されました。

夕刻、小学校時代の先輩と懇談。初恋の人の兄君なり。

帰宅後は、明日の萬葉集講義の準備

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2007年10月30日 (火)

千駄木庵日乗十月二十九日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は、諸雑務。

夜は、木曜日の『萬葉会』における講義の準備。

          ○

最近いただいた書籍を紹介します。

『日本を語る・皇室と伝統文化篇』(神社本庁編・小学館スクウェア発行)。執筆者の一人である田尾憲男先生からいただきました。田尾先生の「日本の皇位継承は『男系男子』が基本」長谷川三千子さんの「五箇条の御誓文こそ日本独自の民主主義」岡野弘彦氏の「和歌は古代の優れた魂を感受する命綱」など、皇室と神話・和歌・神道・政治について、時宜を得た貴重な論文が収録されています。田尾先生は、葦津珍彦先生の門下で、國體・皇室・神道學・憲法の泰斗です。ずいぶん以前からいろいろとご指導をいただいております。

『徳永春穂画帖・和気清麻呂十六景』(和気神社発行)。先日、岡山県和気町に鎮座する和気神社に参拝させていただきました折、小森成彦宮司から頂きました。和気清麻呂公の御一生を描いた十六枚の絵が解説と共に収められています。絵は、徳永春穂氏が描き、解説は小森宮司が書かれました。国家の危機を救った和気清麻呂公と姉君の和気広虫姫の御事跡が美しくわかりやすく書かれております。

『大國民讀本』(林平馬氏著・「日本を考へる二十五日會」発行)。著者の御令孫・林慎平氏より、氏の経営される林養魚場にて小生が講演させていただきました折に頂戴しました。蓮沼門三氏主宰の修養団の創立者の一人であり政治家でもあった林平馬氏が、日本国の本質、日本主義とは何かということをわかりやすくしかも実に的確に論じられた名著です。昭和二年に発行されたものを、昨年、林慎平氏によって復刻さました。「平和主義」「太陽主義」「中心主義」「民本主義」「君本主義」「汎世界主義」などの項目が立てられています。この本に書かれていることを日本国民が実践すれば日本国は絶対に滅びることはありません。今日の青少年に是非とも読んでもらいたい書物です。

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2007年10月29日 (月)

千駄木庵日乗十月二十八日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後二時より、早稲田大学国際会議場にて、「シンポジウム・台湾研究をめぐる日台若手研究者の対話」開催。登壇者の発言は次の通り。

〈蔡錫勲淡江大学准教授〉「麻生氏が多くの票を集めたので、福田氏は簡単に親中政策をとれないだろう。福田氏は、所信表明で『集団的自衛権』と『改憲』に触れなかった。福田氏の『アジア重視』には台湾は含まれるのか。福田氏は、エネルギーの日中共同開発を望んでいるが、中国は日中中間線を簡単に認めない。」

〈浅野和生平成国際大学教授〉「台北は八重山群島より北にある。中国の台湾に対する軍事的アクションは八重山群島の人々にとっては自分の庭で起こったこと。中国がミサイル発射をした時、八重山の人は三週間、漁に出られなかった。台湾は決して小国ではない。EUの中に台湾を位置させると、人口・GDPで中堅国家。台湾が中国の統治下にあったのはごく短期間。日本は『日台関係基本法』を作るべし。」

〈林呈蓉淡江大学教授〉「台湾は四百年の間にオランダ・鄭成功・清国・日本・蒋介石国民党という五つの国旗を持った。二〇〇〇年の総統選挙で民主化した。日本の総督府が国家という概念を台湾人に教育した。インフラを整備した。温泉・体操・野球・ラジオ放送という庶民文化は日本時代に学んだ。『仕上げ』『リンゴ』『運ちゃん』『天ぷら』『寿司』『味噌』という日本語が使われている。」

〈何義麟台北教育大学副教授〉「台湾文学とは台湾人が台湾語で書いたもののみとはいえない。台湾人はいつ形成されたのか、台湾語とは何かが大きな課題。日本語で書かれた短歌・俳句・小説もある。使用言語のみではなく、作家の民族意識を問わねばならない。クレオリテイ(注・言語、文化などの様々な人間社会的な要素の混交現象)が台湾文化の特徴。それが台湾の主体性を獲得する。日本文化はクレオール文化の主要な構成要素。台湾人の主体性が問われている今こそ、積極的に日本文化に接し、クレオール文化を作るべし。」

帰宅後は、手紙執筆など。

            ○

早稲田大学構内の奥の方まで入ったのは本当に久しぶりでした。大隈重信像を仰いだのも久しぶりでした。学生時代、左右の学生運動が盛んでしたが、民族派学生運動に参加していた私は、早稲田の紛争の時、民族派学生運動の応援に早稲田大学によく行きました。大隈像のところで左翼学生と対決したこともあります。幸い暴力沙汰にはなりませんでしたが、危険な体験でした。公安警察官が左翼学生に取り囲まれ、「殺すなら殺せ」などと叫んでいたのを見たこともあります。大口議長という人が止めに入って、事無きを得たように記憶します。

その頃は、左翼学生運動・革命運動が盛り上がりました。マルクスレーニン主義革命思想が青年学生の心をとらえ、闘争に駆り立て、多くの人々が犠牲になりました。共産主義という妖怪が二十世紀の世界と日本をどれだけ不幸にしたか分かりません。

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2007年10月28日 (日)

千駄木庵日乗十月二十七日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後十二時半より、靖国神社境内の靖国会館にて、『NGO世界人権擁護協会・戦没者慰霊植樹『桜会』設立報告会」開催。塚本茂NGO世界人権擁護協会会長、大西優戦没者慰霊植樹『桜会』代表が挨拶。奈良彰久氏が経過報告を行った。そして藤元正義・犬塚哲爾・近藤勢一の三氏そして小生が祝辞を述べた。続いて、直会が行われた。

小生は、「人権という言葉が戦後左翼にからめ取られてしまった。頭山満先生などが結成した明治第二維新運動組織・玄洋社の社則は『皇室を敬戴すべし』『本国を愛重すべし』『人民の権利を固守すべし』である。『人権を守る』ということは愛国維新運動の重要な目的の一つである。國のために命を捧げられた護国の英霊によってまさに日本国は護られている。護国の英霊への慰霊顕彰は国民の義務である」ということを申し述べた。

この後、小生は、三番町にある山種美術館にて開催中の「川合玉堂展」見学。湖畔暮雪・荒海・鵜飼・石楠花・早乙女などの名品を見る。

帰宅後は、資料の整理。

            ○

川合玉堂はわたくしの最も好きな画家の一人です。日本の美しい風景をこれほど見事に描いた画家はいないと思います。自然のいのちを写していると思います。

玉堂の風景画を鑑賞しますと、心洗われる思いがするとともに、心が安らぎます。特に美しい風景の中に馬を引いたり、船に乗ったり、田植えをしたりしている庶民の姿が小さく描かれているところがとても良いと思います。自然の中に抱かれて生きてきた日本人の姿が実感できます。

玉堂の絵を見つめていますと、思わずその絵の中に入って行きたくなります。また、玉堂記念館のある青梅の渓谷を思い出します。

今日は風雨強き中、靖国神社に参拝し、そして玉堂の風景画を鑑賞することが出来、有意義な一日でした。

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2007年10月27日 (土)

千駄木庵日乗十月二十六日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後一時より、幕張メッセ国際会議場にて、「東京モーターショー2007祝賀レセプション」開催。

三笠宮寛仁親王殿下がご来臨あさばされました。張富士夫日本自動車工業会会長が開会の挨拶。甘利明経済産業大臣が祝辞を述べました。青木哲自工会副会長の音頭で乾杯を行いました。この後、モーターショーを見学。色々新しい自動車が展示されていました。

私は自動車といえば、たまにタクシーに乗って「ああ損したなあ」と思うくらいですから、あまり縁がないのです。また、特に自動車に興味があるというわけではありません。無いと言った方がいいと思います。第一、運転免許もありません。

学生時代、お抱え運転手付きの自動車に乗るくらいの人物に出世しようなどと思っていましたが、未だその目的は達成されていません。今後もちょっと無理なようです。それより、六十の手習いで、自転車に乗る訓練をしようかと思っております。

ある方がこの会合に出席できなくなったため、社会勉強になるとも思い、私が代理で参加しました。

今日展示されていた自動車は、タクシーに使われているものとは大違いで、ジェット機のような形の車や、どこから乗ったらいいのか分からないような形の車もありました。

これだけ進歩発達した自動車があるのですから、乗車した途端に体内のアルコール分が蒸発して酒気が消えてなくなるという自動車が発明されないものかと思います。そうすれば酔っ払い運転は無くなります。

ロールスロイスが展示されていましたが、さすがに風格がありました。

往復の電車は遠距離の上に混んでおり、パーティーでは立ちっぱなし、その後広い展示会場を経巡りましたので疲れました。

帰宅後は、資料整理など。

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2007年10月26日 (金)

千駄木庵日乗十月二十五日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後一時半より、高円寺の教育創造研究所にて、「しきしまの会」開催。小生が、和歌と祭祀について講義。質疑応答。終了後、出席者と懇談。

帰宅後は、書状執筆など。

            ○

今日の「しきしまの会」では、次のようなことを申し述べました。

「あはれ あなおもしろ あなたのし あなさやけ おけ おけ」                    『古語拾遺』

「にほ鳥の葛飾早稲(わせ)をにへすともその愛しきを外(と)に立てめやも」              『萬葉集』東歌

「誰(たれ)ぞこの屋の戸押()そぶる新嘗(にふなみ)に吾背を遣()りて齋(いは) ふこの戸を」      『萬葉集』東歌

「熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 」                 額田王

「君が代も わが世も知るや 磐代(いはしろ)の 岡の草根を いざ結びてな」                   中皇命

「磐白(いはしろ)の 濱松が枝を 引き結び まさきくあらば またかへり見む」                 有間皇子

「立つ石に むかしをしのび をろがめば 神のみいつの いやちこにして」              北白川宮房子内親王

という和歌を講義し、以下のやうなことを話させていただきました。

「まつり」とは厳粛なる行事ではあるが、堅苦しい苦行ではない。明るく愉快な行事である。神人融和・神人合一の状態は明るく面白いのである。

神話の世界も萬葉の世界も、新嘗祭は女性が執行されてゐる。女性は穢れがあるから祭りをしてはならないといふのは日本の太古からの傳統に反する主張である。女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことは絶対にない。それは、神功皇后・斎明天皇などの御事績を拝すれば明らかである。

天之御中主神と一体の関係にある高御産巣日神、神産巣日神は、「生(む)す」といふ「天地生成の働き」を神格化し神の御名で表現したのである。「ムス」は生き物が自然に生ずる意、「ビ」は靈力の意である。また、「生産」「生成」を表はす「ムス」と「神靈」もしくは「太陽」を表はす「ヒ」との合成であるといふ説もある。ともかく高御産巣日神、神産巣日神は、生命力の根源の神である。本居宣長は「凡てものを生成(な)すことの靈異(くしび)なる神靈(みたま)」としてゐる。高御産巣日神は男系の神であり、神産巣日神は女系の神であるとされる。

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2007年10月25日 (木)

千駄木庵日乗十月二十三日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は、ある会合に出席。スピーチ。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、「萬葉古代史研究会

」開催。萬葉集東歌を講義。

帰宅後は明日の「しきしまの会」講義の準備。

            ○

 徳川慶喜及び水戸藩についてもう少し書いておきたい。水戸藩は明治維新の前哨戦において多くの犠牲を出した。安政の大獄で先覚者が処刑され、桜田門外の変・英國大使館襲撃・坂下門外の変・天誅組挙兵・生野挙兵そして筑波挙兵に幾百人の水戸藩の志士が参画し血を流し命を捧げている。

だが、水戸藩は長州や薩摩にのような倒幕の主勢力になることはできなかった。つまり明治維新政権の廟堂(政治をつかさどる所)に立つことはできなかったのである。悲劇の藩と言わねばなるまい。

 しかし、明治天皇は明治八年(一八七五)四月四日、桜の花のま盛りに、東京小梅村(現在の墨田区)の徳川昭武(水戸藩第十一代藩主・斉昭の十八男、最後の藩主)の屋敷をお訪ねになり、光圀・斉昭らの遺墨を御覧になり、

「花ぐはし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我はとひけり」

 と詠ませられた。『大日本史』を淵源とする水戸學の大義名分論、尊皇攘夷思想が明治維新の思想的原動力であったこと、そして光圀・斉昭の功績のみならず、斉昭の子にして徳川第十五代将軍となった徳川慶喜が、大政奉還を断行し、鳥羽伏見の戦い以来、フランス公使ロッシュの徹底抗戦の勧告を退けて、一意恭順を守り、外國からの侵略に対する日本立國の危険を除去した慶喜の尊皇愛國の心を嘉賞されたと拝する。    

  

 徳川慶喜は、明治三十一年(一八九八)三月二日宮中に参内、明治天皇・昭憲皇太后に拝謁した。そして同三十三年には麝香間祇侯(宮中席次に類するものとして、宮中における優遇者に特定の部屋に入って控える資格が与えられた。麝香間祇侯は、天皇御自ら官に任ずる親任官待遇の人から選ばれた。「祇」とは至るという意味)、三十四年公爵、大正二年(一九一三)十一月二十二日の死去に際しては、旭日大綬章を賜った。

ただこのような慶喜晩年の栄誉は、彼自身の功績によると共に、多くの水戸藩尊攘の志士の犠牲があったからであることは指摘しておかなければならない。

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2007年10月24日 (水)

千駄木庵日乗十月二十三日

午前は、父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は、母の御伴で診療所などへ。

夕刻、知人と懇談。

夜は、原稿執筆、木曜日の「しきしまの会」(和歌講座)の講義準備。

              ○

昨日に引き続き徳川慶喜のことを少し書いてみたい。徳川慶喜に尊皇心があったことは事実である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」「恭順謹慎」を行わしめたのである。

後年、慶喜はその心情を次のように語った。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。

徳川慶喜は、天皇に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうことはできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への忠誠心が明治維新成功の大きな原因の一つである。慶喜が維新後すぐに朝敵の汚名を取り除かれたのは当然であった。

 さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。鳥羽・伏見の戦いで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のように記している。

 「(慶應四年・註)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。

 徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力のみでは断じてない。それはわが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

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2007年10月23日 (火)

千駄木庵日乗九月二十二日

午前は、父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後二時より、上野寛永寺大書院にて、「上野の山文化ゾーン講演会」開催。浦井正明(寛永寺執事長)が「明治政府と彰義隊」と題して講演し、「彰義隊は正規の幕府軍ではない。明治政府が幕府軍というイメージを作り上げた。もともとは一橋徳川家の組織で『橋府随従の有志』『尊皇恭順同志会』という名称であり、官軍に楯突こうとしたのではない。浅草本願寺で阿部杖作が『彰義隊』と名付けた。将軍の床几(しょうぎ)という意味もあった。

徳川慶喜が上野寛永寺で謹慎していたので、上野へ行って慶喜を護ろうと考えた。

一橋家は領地・石高・家臣が少なかった。重役も幕府から派遣された。彰義隊初代頭首の渋沢成一郎(栄一の従兄)も二代頭首の天野八郎ももともと豪農の出身で、幕末それも慶応年間になって一橋家の家臣になった。慶喜が将軍になったあと幕臣となった。渋沢と天野は慶喜と一緒に水戸へ行きたいと願ったが、絶対に朝廷と戦わないという信念を持っていた慶喜はこれを拒否。

渋沢・天野は武家という身分にはなったが、幕府軍を指揮する立場ではなかった。勝海舟が彰義隊を江戸の治安維持のために利用した。彰義隊は寄せ集めの軍隊であり、正規の幕府軍ではない。幕府からの解散命令も拒否した。

西郷隆盛は『他の誰を許しても、慶喜だけは切腹させる』と言っていたが、明治元年、『死一等減ずる』という処分にし、翌二年には朝敵の汚名も外した。のち、勲一等を授与された。一方、西郷さんは西南戦争で朝敵となった。しかし、同十五年に朝敵の汚名を外され、二六年には銅像が建てられた。この二つのことは、旧幕臣と旧士族を慰撫するために行われたと思われる。

これに比して、彰義隊は明治六年まで遺族の墓参りすら許されなかった。明治四十年になってようやく上野戦争碑が寛永寺に建てられた。彰義隊が明治政府によって徹底的にたたかれたのは、寄せ集めの軍隊だったので、組織立った反発ができないからだったと思われる。明治政府は汚いと私は言いたい。」と語った。

実際に上野戦争の現場てあった寛永寺で、その歴史を聞くのは大変有意義であった。浦井先生はさすがに徳川家菩提寺である寛永寺の執事長あられるだけに、明治政府に対して相当の批判を持っておられる。浦井氏の見方を全面否定はできないが、西郷隆盛・徳川慶喜に対する明治政府の対処は、日本人の大らかさの反映であると私は思う。何もかも政治的思惑で行われたわけではなかろう。

明治天皇は西郷隆盛を深くご信頼あそばされていたし、徳川慶喜は、尊皇攘夷を唱え井伊直弼と対立した徳川斉昭の子息である。いつまでも朝敵の汚名を着せ続けなかったのは当然のことである。しかし、戊辰戦争・上野戦争は、戦争である以上悲劇もあったし、惨いこともあったことは事実である。であるがゆえに、今日に於いても、多くの人々が戊辰戦争・上野戦争の戦死者を弔い、慰霊しているのである。

午後六時半より、内幸町の日本記者クラブにて、「田久保忠衛氏の出版を祝う会」開催。櫻井よしこ・塚本三郎・屋山太郎・渡部昇一・石破茂・西村眞悟・許世楷の各氏らが祝辞を述べ、田久保氏が謝辞を述べた。大変な盛会であった。田久保氏は、親米主義者のように言われるが、まっとうな愛国者でありナショナリストである。

帰途、ある先輩と懇談。

帰宅後は、木曜日に行われる「しきしまの会」における講義の準備。

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2007年10月21日 (日)

千駄木庵日乗十月二十一日

午前は、父のお世話。訪問看護師の方と共なり。 

午後からは在宅して、水曜日の萬葉古代史研究会における講義の準備など。

            

             ○

小沢一郎氏はインド洋での海自の活動が憲法違反であると主張する。と同時に、自衛隊の支援活動を根拠づける国連安保理決議がないことが一番の問題だと主張している。小沢は、「自衛隊の海外派遣が『武力の行使』であっても、国連安保理決議があれば憲法違反にならない」「違憲である『武力の行使』も国連安保理決議があれば許される」と考えているとしか思えない。つまり、

小沢は国連を国家主権より上位のものと考えているのだ。

国連が現実には安保面できわめて無力なことはあまりに明白である。小沢氏は北朝鮮のミサイル脅威や台湾海峡の有事、あるいは共産支那の軍拡という事態に対し、国連が日本の安全を守ってくれるとでもおもっているのか。共産支那が常任理事国である限り、その可能性はゼロである。

小沢の国連信仰が本心ならば、彼はまことに幼稚な政治家ということになる。小沢は民主党内の旧社会党勢力を離反させないためにテロ特措法に反対しているのだ。

テロ特措法による日本の自衛隊のインド洋での給油活動は日米同盟への寄与だけでなく、アフガニスタンで国際テロ勢力と戦う多数の諸国による国際安保努力への死活的に重要な協力なのだ。その停止は日米同盟と国際安保活動の両方からの離反ともみなされ、日本自体の安全保障にも大きな損失となる。

小沢は、自民党政権を揺さぶり、自分たちが政権を取るという目的のためには、日本国を危険に晒してもいいと考えているとしか思えない。馬鹿な政治家である。

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千駄木庵日乗十月二十日

午前、父が異常を訴えましたので、共に病院に赴き診察していただく。

午後は、「政治文化情報」発送準備。発送完了。購読者の皆様には月曜日にお届けできると思います。

その後は、書状執筆、水曜日の萬葉集講義の準備。

来週は色々な行事や会合などがあり、忙しくなりそうです。今週だけでなく、十月後半から十一月は様々な予定が入っております。

             ○

世の中は活発に動いています。そしてそのことによって日本の国がより良くなることを祈ります。

福田内閣が誕生してしばらく経ちましたが、民主党との戦いが今後どのようになっていくか、興味のあるところです。

相変わらず、国家の基本問題・根幹にかかわることでの与野党の論戦というものは行われず、年金問題、政治と金、防衛庁幹部と業者との癒着といった問題が「国家の一大事」として騒がれています。困ったことです。

私はもちろん福田康夫氏の思想・理念というものに大きな疑念を持っています。しかし、小沢一郎・菅直人という人が領導する今の民主党が政権を担うことは決して日本のためにはならないと思います。この二人の歴史観・国家観・政治姿勢がまずおかしい。そして、外交・安保・憲法、何一つとってみても、政府与党のやることには何でも反対というかつて社会党と同じような姿勢になっています。

また小沢氏はその主張がコロコロ変わり、一貫性がなくなっています。

しかし、私は自民党政権が出来得る限り長く続けば良いと思っているわけでは決してありません。自民党の中の反日的・「媚中」政治家が多くおります。しかも、福田内閣成立によって、この連中の影響力が増大しました。危険な兆候です。

戦後体制の解体・真正保守政治実現=平成維新断行のために奮闘努力しなければならないと思っております。ともかく今のままの日本では亡国の道を歩むしかないということです。

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2007年10月20日 (土)

千駄木庵日乗十月十九日

午前は、父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

お昼は知人と懇談。

午後は、諸雑務。

夜は、「政治文化情報」発送準備。

                      ○

マスコミは、守屋武昌・前防衛章事務次官が防衛商社と不適切な関係にあったという疑惑報道で、守屋氏が歴代防衛庁、防衛省の事務次官の中でも群を抜いて強い影響力を保持しているとされることを、「防衛省の天皇」と呼ばれていたなどと揶揄している。

以前から、ある団体・企業・集団などの権力者・実力者に対して「何々の天皇」という表現が用いられることがある。これは決して良い意味で使われる比喩ではない。何時頃から使われ出したか知らないが、天皇に対する冒瀆であることは間違いない。

日本天皇は、権力者ではあらせられない。古来、国家国民の幸福と五穀の豊穣そして世界平和を祈られる祭祀主としての神聖なる権威によって、国家国民を統合され統治されるご存在である。そして、常に無私の精神で国民に接してこられた。神聖君主日本天皇は、日本の道義精神の継承者であり、体現者であらせられる。

いかに「言論の自由」は守られなければならないとは言っても、日本存立の基本である天皇の神聖性への冒瀆は断じて許されない。政府・宮内庁は、天皇および皇室に対する冒瀆、天皇の神聖性の侵害に対して、これまで何等の具体的な対処して来なかったことが、こうした比喩が平気で行われる原因である。

そして、国民の天皇・皇室への尊崇の心が知らず知らずのうちに希薄になっていくのである。法的対処も反論もお出来にならない天皇・皇室をお守りするのが、政府の役目である。政府は、皇室の尊厳性をお守りする為に具体的に対処を講ずるべきである。

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2007年10月19日 (金)

千駄木庵日乗十月十八日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後からは在宅して資料整理、書状執筆など。

           ○

共産支那外務省の劉建超・報道局長は18日の定例会見で、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世が17日、米議会から勲章を授与され、ブッシュ大統領と式典に同席したことについて、「中国内政への粗暴な干渉で、中米関係に重大な損害を与えた」と述べ、激しく非難した。また、ブッシュ大統領が「中国の指導者にダライ・ラマを迎え入れるよう促していく」などと語ったことに対しては、劉局長は「中国がこの問題をどう処理するかは中国国民の事情であり、他人に教えてもらう必要はない」と反発した。

 支那大陸にある帝国は、自らを「中國」あるいは「中華」と称して来た。それは帝政時代から今日に至るまで変わらない。 

 津田右左吉氏は次のように論じている。「彼ら(支那人)は自分等を中華とし、自分等で無いものを夷狄として、中華は夷狄を支配するべきものと考へ、天の代表者である自分等の天子は、すべての夷狄、即ち全世界・全天下に君臨してゐるものだと考へてゐた。だから彼等の中華思想では…民族全體が一つの國として、他の國と対峙するものとも認めない」(文學に現はれたる我が國民思想の研究)。

 「中華思想」とは、世界・天下の中心の支那があり、世界・天下の人民も國土も全て支那の皇帝のものだという恐るべき侵略思想なのである。この「中華思想」があの広大にして人口の多い支那大陸を一つの権力國家にまとめあげている唯一の原理である。「中華思想」は、対内的には少数民族の抑圧の原理、対外的には軍事的侵略による覇権確立の原理となっている。共産支那による理不尽極まりわが國への恫喝・内政干渉、

 そして、わが國外交官や國に対する不法行為・人権蹂躙が繰り返され益々ひどくなってきている根本原因は、支那人および支那の政治権力特有の「中華思想」に拠る。支那の日本に対する侮蔑・差別観念は「中華思想」から来ている。

 「中華思想」は、周辺諸民族を東夷・西戎・南蛮・北狄と獣や虫けらのように呼んでこれを蔑視し侮った。「東夷」とは弓を射るのがうまい民族・東方の野蛮人のことで、日本・満州・朝鮮などの民族を指した。「西戎」とは槍術のうまい民族・西方の野蛮人のことで、チベットやトルコ系の諸民族を指した。「南蛮」とは蛮は虫扁がつく南方の野蛮人のことで、インドシナなど南海諸地方の民族を指した。「北狄」とは犬扁のつく北方の野蛮人のことで、匈奴(きようど)・ウイグル・韃靼(だつたん)等の遊牧民族を指した。いずれも野蛮な民族ということである。これほどの他民族差別思想・侵略思想・大國主義はない。

 支那はこの論理によってこれ迄の長い歴史において周辺諸國を侵略して来た。秦始皇帝・漢武帝・隋煬帝・唐太宗のように内乱の後に大統一帝國が成立した後には、強力な國外侵略を行っている。共産支那帝国もその歴史を繰り返そうとしているのである。

共産支那のアジア侵略粉砕!

東アジア共同体構想粉砕!

チベット独立・台湾独立万歳!

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2007年10月18日 (木)

千駄木庵日乗十月十七日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後一時半より、永田町の衆議院第一議員会館にて、「新しい憲法をつくる研究会」開催。清原淳平氏が司会。

中山太郎衆院議員が「国民投票法成立までの経緯と今後の憲法問題」と対して講演し、「国民投票法成立のために与野党共同で法案を作ろうということで民主党も賛成してくれた。弁護士で将来のリーダーである枝野幸男君が自民党の船田元君と人間的に親しいというとで、二人で話しをして貰いたいと言った。枝野君は『憲法は政権が変わるたびに変わるべきではない。三分の二が賛成しなければ改正できない。与野党共通の基盤を作るべし』という話になった。

民主党から投票年齢を引き下げ、十八歳にするという具体的提案があった。他の法律の適用も十八歳にしなければならないという法制上の問題が出て来た。二十七・八の関連法がある。世界では、百八十カ国で十八歳が投票年齢。

国民投票は反対と賛成を並立させ、どちらかを選んでもらうという方法にした。新しい憲法制定のために与野党が話し合わなければならないことがたくさんある。衆参両院に憲法審査会を作らねばならない。小沢氏が反対を声明し、理事たちの合意が出来なかった。

全国民的に国の形を議論してもらうことが一番大切。また前回の戦争で被害を与えた国の理解を得なければならない。

少子高齢化により地方自治体の税金がたかくなる。市町村合併を行わなければならない。自治体の在り方や税金をどうするのか。団塊の世代が退職し生産人口が減り、外国人を入れなければならなくなる。そのシステムをどうするのか。今の若い世代にとって、自分の今後の人生がどう決められるかの問題。日本の憲法を理想的なモデルになるような憲法にしたい。」と語った。

竹花光範駒沢大学教授が「主要国の憲法改正状況」と題して講演し、「私は、内閣に憲法改正の発案権があるという説をとっている。発議は国会の権限。三分の二以上が賛成し可決することを発議という。

現行憲法は昭和二十一年十二月に公布され、二十二年五月に施行された。当時の状況ではある意味でやむを得ない内容。

今日、当時全く想定されなかった状況が生まれて来た。新しい事態に適合する憲法にするというのが憲法改正。アメリカは、第二次大戦後今日まで憲法を六回改正した。ドイツは五十三回改正した。一九五四年の占領解除・独立達成の時、兵役を国民の義務とする規定が憲法(『ボン基本法』)に加えられた。

現行日本国憲法が交戦権を否定しているのが大きな問題。交戦権を否定したら、独立主権国家ではあり得なくなる。」と語った。

帰宅後は、諸雑務。

            ○

交戦権を否定した憲法を持っているわが国は未だに独立主権国家ではないということである。これでは、アメリカ・共産支那・朝鮮半島に対してまともな外交が出来ないのは当然である。アメリカの軍事力の庇護のもとにあり、支那や朝鮮から軍事的恫喝を受け続ける国が、現行憲法体制下の日本なのである。現行憲法無効宣言・自主憲法制定は国家緊急の課題である。

「九条の会」などの勢力が日本で活発な動きをしているのは困ったことである。自主憲法制定・現行憲法改正に反対する勢力は、日本が共産支那・朝鮮の属国であることを望んでいるとしか思えない。すなわち売国勢力である。また、小沢一郎が憲法問題まで政争の具にしているとしたら、彼もまた売国者ということになる。

憲法問題については、コラム欄にある小生の憲法論をご覧下さいませ。

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2007年10月16日 (火)

千駄木庵日乗十月十六日

午前は、父の付き添いで病院へ。介護の方と共なり。

午後は、上野公園の東京藝術大学美術館で開催中の「岡倉天心ー藝術教育の歩み」展参観。岡倉天心を描いた絵画・彫刻、岡倉天心の美術に関する講義録、岡倉天心と関係の深かった高村光雲・横山大観・菱田春草・平櫛田中・下村寛山などの作品を見る。

岡倉天心は、芸大の前身である東京美術学校の創立に深く関わった人物で、日本近代美術の発展に多大な貢献をしたのみならず、日本文化を世界に紹介することにも大きな貢献をした人物である。東京美術学校長を辞した後、谷中に日本美術院を設立した。日本美術院の跡地は現在岡倉天心記念公園になっている。

私宅の近くなので時々訪れる。岡倉天心作詞の『日本美術院院歌』を横山大観が碑にして建てている。

「谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい 奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい 録天心先生作日本美術院院歌 大観」

と刻まれている。 美術学校の校歌とは思えないような意気盛んな歌詞であり、私も時々口ずさむ。この公園には、六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。

帰宅後は、諸雑務。

            ○

民主党の石井一氏が、公明党創価学会の政教一致問題について参院予算委員会で追及した。論旨はほとんど賛成である。しかし、公明党創価学会を政権内部に引き入れ細川政権を作ったのは小沢一郎氏であることを忘れてもらっては困る。小沢氏が自民党を脱党し、理念も思想も政策も全く異なる政党を野合させて細川内閣を作ってから、日本の政治が混迷した。小沢氏の責任は大きい。中曽根康弘氏は「禁じ手を使った」と小沢氏を批判した。

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千駄木庵日乗十月十五日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後二時より、参議院議員会館にて、「緊急集会・記者会見―沖縄戦『集団自決』-教科書検定への政治介入に断固反対する」開催。

登壇者の主な発言は次の通り。

小田村四郎氏「軍による集団自決強制は虚構。そういう事実は無い。」

中村粲氏「手榴弾を配ったのは防衛隊。正規の軍ではない。体験者の錯覚、誤った発言をマスコミが利用。『生きて虜囚の辱めを受けず』という当時の国民意識が齎したこと」

藤岡信勝氏「座間味島の日本軍の梅沢隊は住民自決を押しとどめようとした。梅沢裕隊長は『決して自決するでない。生き延びてください。弾薬は渡せない』と言った。星雅彦氏の取材では、防衛隊長が『足手まといになる住民を撃ち殺すから機関銃を貸してほしい』と日本正規軍の赤松隊長(大尉)に頼んだら、赤松隊長は『そんな武器は無い』と拒否した。そして軍の包帯や薬を渡した。遺族年金適用のための書類を書いた照屋昇雄さんは『遺族年金を貰う』という村の方針に従い、『梅沢隊に強制された』と書いた。後に照屋さんは良心の呵責に耐えかねて『強制は無かった』と証言した。照屋さんは『嘘をつき通して来たが、心が張り裂ける思いだった。もう真実を話さなければならないと思った。軍の命令とする住民は一人もいなかった』と話している。検定には一点の瑕疵もない。嘘の記述が訂正されると日本軍が沖縄県民の敵だというプロパガンダが崩れるので、今度の検定撤回要求集会を開いた。」

皆本義博氏「沖縄県民は純朴。沖縄の教訓は、日本軍が強制したとかしないとかではない。国際テロに日本がどう立ち向かうかという問題である。兵役制度の無い日本がどうやって国土と国民を守るかが問題である。」

稲田朋美衆院議員「日本軍の強制というのは恩給を貰うための証言ということがわかったので検定意見が出た。集団自決を日本軍が強制したというのは冤罪であり名誉棄損。沖縄の集団自決は悲惨だが軍の強制ではない。」

萩生田光一衆院議員「検定は中立でなければならず、冷静に検定制度の設計をしていきたい。」

高池勝彦弁護士「左翼は論理や事実をすり替える。」

そして決議文が採択された。

この後、記者会見が行われた。その時の発言は次の通り。

中村粲氏「日本軍の命令があったというのは言語詐術。防衛隊は地元の人々で構成された。正規の日本軍ではなく防衛隊員は自宅で生活した。二つの手榴弾は『死ぬ時は一緒に死のう』ということで家族に渡した。極めて自然。『捕虜になるより潔く死のう』という精神が沖縄県民には強かった。」

藤岡信勝氏「防衛隊は在郷軍人・自警団で組織された民間人の部隊にすぎない。それを日本軍の一部であるかのようにマスコミが報道し、国民を錯覚に陥れた。正規軍が住民を自決させる必要はないし意味もないし権限もない。」

皆本義博氏「沖縄戦は、明治六年の建軍以来、対外作戦のみをしていた日本軍にとって、西南戦争以来の初めての近代的国土戦。指揮官に全ての責任を負わせるのかおかしい。九月二十九日の集会には多くの自決者を出した渡嘉敷からは誰も参加していない。極めて政治的な集会。」

この後、今後の運動方針について討議。

終了後、衆院議員会館に同志議員訪問。

帰宅後は、資料整理。

           ○

沖縄戦は悲劇である。集団自決も悲劇である。それは言うまでもない。そもそも戦争そのものが悲劇であり悲惨なのだ。その戦争を沖縄県民は果敢に戦ったのである。そして虜囚の辱めを受けるよりも名誉の自決を選んだのだ。それは祖国日本の歴史に長く書き留められるべきことである。沖縄県民の誇りであり名誉である。日本軍の強制だったとか、命令によって仕方なく自決したのだなどと言って、歴史の真実を歪め沖縄県民の誇るべき祖国愛・大和魂を貶めることがあってはならない。

自決した大田実海軍中将の遺書の一節「沖縄縣民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲを想起し、沖縄県民のことを思うと、涙を禁じ得ない。

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2007年10月15日 (月)

千駄木庵日乗九月十四日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後一時半より、赤坂の乃木神社にて、三潴修学院主催「皇學祭と記念講演」開催。皇學祭・国民儀礼の後、第八代靖国神社宮司湯澤貞氏が「神社奉職四十四年の月日を振り返って」と題して講演し、「明治神宮に昭和三十一年に神職として奉職したのが出発。祭儀部に配置された。翌年の昭和三十二年に明治神宮の千載一遇の御遷宮が行われた。職員宿舎の別のお部屋に森清人先生がおられた。明治神宮は、内苑が二十万坪、外苑が十万坪。大正九年に国有地に造営された。今の国立競技場は、以前は神宮競技場。明治記念館は以前は憲法記念館。明治記念館は結婚式場として評判が良い。そこでもっと儲けたくなって『花がすみ』という料亭まがいのものまでつくった。行き過ぎである。国有地の払い下げを受けた時には神社本庁の世話になりながら、儲かるようになると神社本庁への多額の分担金を振込だったのを神社本庁に取りに来させるようになった。天皇皇后両陛下が御親拝になるお知らせの案内状に『両陛下』と書くべきところを『両殿下』と書き問題になったのをきっかけに、明治神宮は神社本庁を脱退した。残念に思う。神社に教典は無い。明治天皇・昭憲皇太后の御製集が大切。富田朝彦氏は宮内庁次長の時、国会で当時の社会党の議員に『天皇陛下の靖国神社参拝は公的行為か私的行為か』と散々追及された。また、靖国神社国家護持法問題もあった。富田氏と松平永芳元宮司とどちらが正しいかという議論があるが、靖国神社として昭和殉難者の御霊は合祀がふさわしいと判断したのである。古賀誠さんにももう少しご理解を頂きた。」と語った。

この後、板垣正元参院議員が挨拶し、「外に出すべきでないあやふやな『富田メモ』を『天皇の政治利用』の形で利用した。最大の責任者は中曽根康弘と三木武夫。『私的参拝』と言った三木首相の責任は極めて大きい。外交問題になったのは中曽根氏の責任。」と語った。

そして、小生など数人の人が挨拶した。

帰宅後は、資料整理など。

             ○

実際、お気の毒なのは、「天皇陛下の御心に反して『A級戦犯』を合祀した」などと批判されている松平永芳氏である。松平氏は、幽明境を異にされて、反論することが出来ないのである。当時の国会における秦豊などの社会党議員の無法不当不敬なる質問が、富田氏に大きな影響を与えたことは確実である。秦豊などはその質問において昭和天皇様を「裕仁氏」などと言った。國體破壊を目指す社会主義者の策謀が功を奏し、富田氏などの官僚が天皇陛下の靖国神社御親拝の中止の動きを示したのである。「昭和殉難者合祀」が御親拝中止の原因ではない。このことは「政治文化情報」昨年十二月月号で詳しく論じた。皇室問題は、宮内庁の権威の失墜が大きく影響している。他の官庁トップ経験者の天下り先が宮内庁長官の椅子になっている。そして政治家に顎で使われて、皇室の政治利用を防ぐことが出来ないのである。宮内庁も一日も早く省に格上げすると共に、政治権力とは別の位置に置くべきである。

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2007年10月14日 (日)

千駄木庵日乗十月十三日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

お昼、ある雑誌記者の取材を受ける。

午後三時より、新宿霞ヶ丘の日本青年館にて「青年思想研究会物故者を偲ぶ会」開催。国民儀礼の後、市村清彦議長が挨拶。山口申・杉山清一・箱崎一像・藤元正義・犬塚哲爾・鈴木邦男・小島石根の各氏そして小生が挨拶。参加者一同で物故者を偲んだ。近藤勢一議長代行が謝辞を述べ、終了した。

帰途、同志数人と懇談。

帰宅後は、原稿執筆・完成・送付。

             ○

青年思想研究会は、民族運動の連合体として長年にわたって活動してきた。物故された同志には小生が大変お世話になりご指導をいただいた方が多い。多くの同志が集まり、慰霊と感謝の誠を捧げるとともに、今後のご加護をお祈りした。

小生は高校時代・大学生時代から今日まで約四十年間、民族運動に参加して来た。幽明境を異にされた先輩方が余りにも多くなっていることに驚きの念を禁じ得ない。本当にさみしいことである。物故同志の志を継承して行くことが我々の責任であると痛感する。

民族運動・愛国運動は、これまで、國體護持運動・靖国神社護持運動・正しい歴史認識を取り戻す運動・自主憲法制定運動・反共運動・北方領土などの領土奪還運動・日教組批判活動などの教育正常化運動をはじめとして様々な運動を展開してきた。そしてそれらは皆正しい運動であったし、時代の要請にこたえる運動であった。

今後も、いかなる困難があろうとも、国を害する者共には恐れられ、国を愛する国民には信頼される姿勢を堅持して、愛国維新運動をより一層活発に展開していかなければならない。

小生も、多くの活動家の驥尾に付して言論活動を中心に出来得る限りの努力をする決意である。

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2007年10月13日 (土)

千駄木庵日乗十月十二日

午前は父のお世話。訪問看護師と共なり。

午後は原稿執筆。

午後六時より、「九段下沙龍」開催。木村三浩一水会代表がスピーチし「大東亜戦争における戦没者はまだマリアナ海溝に眠っている。また満州・朝鮮半島にも多くの方々が眠っている。遺骨が収集できない。満洲の民衆の被害者意識を刺激するということが日中間の取り決め。ハルピンなどに遺族が行ってホテルの中で慰霊をしている。平成四年からロシアでは出来るようになった。朝鮮には七十数か所の日本人墓地があったが、今は移葬されて何処に移されたか分からない。北朝鮮では価値のないものという扱いを受けている可能性あり。日本政府は問い合わせを行っていない。満州・朝鮮での慰霊碑建立を日本政府は交渉すべし。今年二月、民族派の訪朝の話があった。拉致された人々の安否などについて進展があるのなら訪朝する価値はある。日本が開発し発展させた満州・朝鮮に対して今日の国際情勢の中でどういう位置付けをするのか。日本を愛し日本の文化伝統に誇りを持つ我々に何が出来るのか。満州は民衆レベルでは親日。日本人を『東洋の鬼』と言いながら残留孤児を育てた満洲の人々と、十五年戦争は日本の侵略だったのかどうかを話し合えれば良い。ベトナム独立戦争に二・二六事件に参画した将校と陸士同期の日本軍人が参加した。」などと語った。

この後、侃侃諤諤の討論そして懇談。

帰宅後も、原稿執筆。

             ○

渡部はま子さんの「いとしあの星」という大陸に渡った日本人の望郷の思いを主題にした歌に「いとしこの身は どこまでも 決めた心は 変りゃせぬ」「骨も命も この土地に みんな埋めよと 笑い顔」(サトウ・ハチロウ作詞)という歌詞がある。当時の日本人は大陸の土にになる覚悟で渡ったのである。

しかし、野ざらしになっているのならやはりわれわれ日本人の手できちんと埋葬し、慰霊碑を建立すべきである。

ただし、共産支那・北朝鮮の政治的思惑や対日謀略に利用されないように十分に注意しなければならない。

北朝鮮を訪問すると金日成の銅像に拝礼させられるという。とんでもないことである。朝鮮戦争で何十万という同胞を殺し、批判した人々多数を残忍な手段で投獄粛清し、何十万という自国民を飢餓と餓死に追い込んだ人物の銅像を拝むなどということは真っ平御免である。

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2007年10月12日 (金)

千駄木庵日乗十月十一日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

お昼は知人と懇談。現在の諸問題について語り合いました。

在宅して原稿執筆。

           ○

 日本の神とはいかなるご存在なのでしょうか。そのことについて書いてみます。

「かみ」のカは接頭語。ミとかムに意味がある。ミ・ムは霊的な力をいふといはれてゐる。ミは身であり実である。即ち存在の実質・中身のことである。このやうに強い霊力・霊威を持った存在のことをカミといふ。上の方にゐるからカミといふといふ説は國語学上は誤りであるといふ。

 本居宣長は、「凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノフミドモ)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(ミタマ)を申し、また人はさらに云はず。鳥獣(トリケモノ)木草のたぐひ海山など、其餘何(ソノホカナニ)にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて。可畏(かしこ)き物を迦微(カミ)とは云なり、すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優(スグ)れたるのみを云に非ず、悪(アシ)きもの奇(アヤ)しきものなどをも、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」と述べてゐる。この考へ方が今日の神道学の神観となってゐる。

 神に掛る枕詞は「千早振る」である。「チ」は霊のことであり、「ハヤ」は激しいといふ意、「振る」はふるへる意。霊が激しく振ふことをいふ。

 漢字の「神」は象形文字で、偏の「示(しめすへん)」は、神へ供へ物を献ずる台の形を表す。つくりの「申」は稲妻の形を表す。即ち「神」といふ漢字は、雷を神として祀る信仰から発したのである。即ち日本でも支那でも「雷」は神として仰がれ恐れられたのである。

 古代人にとって、太陽のやうな有り難い神もをられるが、雷のやうな恐ろしい神もをられたのである。宣長の云ふ通り、「悪(アシ)きもの奇(アヤ)しきものなどをも、世にすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」なのである。

 「カミナリ(雷)」といふ言葉は「神が鳴る」といふ意味である。歌舞伎にも「雲の鳴神上人」といふのが登場する。

日本国の最高神は、皇祖神であられるとともに太陽神であられる天照大神である。

そして身を隠されている神、即ち目に見えない神にまします天之御中主神を宇宙根源神として仰ぐのである。

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2007年10月11日 (木)

千駄木庵日乗十月十日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後一時より、永田町の村上正邦氏の事務所にて、「日本の司法を考える会」開催。坂井隆憲元衆院議員が講演し、「刑務所出所直前、倒れて頭を打ち脳内出血で半身不随になったが奇跡的に助かった。今の刑務所は過剰収容。行革で法務省の定員が増えないことが刑務所にも影響。医者の数も少ない。政治資金規正法に刑事罰しかなく行政罰がないから、選管や総務省が指導できない。検察がすぐ出て来る。検察と警察の関係は微妙。仲良くない。最高裁まで戦うと十年かかるしお金もかかる。控訴を取り下げた第一の理由は、裁判所への不信感。第二はお金が無い。検察官適格審査会は法務省内にあるので機能していない。外部監察が必要。情報公開すべし。国会議員は検察が怖いから議論しない。『欧米の裁判所は有罪か無罪かを決める。日本の裁判所は有罪を確定する』と言われている。検察・警察への監視の目を光らせるのは時代の要請。予防法学が日本には無い。最高裁の情報公開が必要。最高裁判事は、裁判官・検事・民間や他の役所の司法試験合格者の天下り先。」と語った。もっと多くのことが語られたのですが印象に残ったのは以上のことです。

村上正邦氏は次のように語りました。「秘書に責任を転嫁するのが言い逃れの手段といわれるが、議員自身の性格による。議員会館事務所の議員の部屋と秘書の部屋の間のドアを常に閉めている人は、つまらんことに気を使う性格の細かい人。仕事師といわれる議員は、金の出し入れは任せっきり。党と政治家の自浄能力を高めることが大事。ある元総理は、政治家になる前は貧乏していたが、瀬田に邸宅を建て、今や六本木ヒルズに住んでいる。政治家とは儲かる仕事と思われても仕方がない。私は志木の六十八坪の家に住んでいる。」

帰宅後は、原稿執筆。永井荷風論を書いています。

             ○

村上正邦氏は、これから判決を控えています。しかし、なかなかお元気です。村上氏とは、私が高校生の頃、生長の家の活動をしていた時からの知り合いです。その後、参議院のドンといわれるようになった頃には、お付き合いもなくなりました。最近、色々な会合でお会いするようになりました。議員時代、終戦五十年謝罪決議反対運動、国旗国歌法制定、皇室の御慶事などで大変貢献をされた方だけに、今のお立場は大変気の毒です。健康には十分注意していただきたいと思います。裁判の内容は詳しくはわかりませんが、無罪を勝ち取ることができれば幸いと思っております。

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2007年10月10日 (水)

千駄木庵日乗十月九日

未明、父が苦しみ出し、看護。何とかおさまりました。

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は、衆議院議員会館に赴き同志議員と懇談打ち合わせ。同志議員が「安倍内閣の退陣によって真正保守による戦後体制解体・日本再生が十年遅れたのではないか」という見解を表明しました。その通りと思います。

また、平沼赳夫・西村眞悟両氏の政治行動が制約される事態になっていることも大きな痛手です。しかし、神は日本を護りたもう。いかなる困難があろうとも、戦後体制打倒・日本再生即ち平成維新は断行されなければなりません。

安倍・平沼・西村三氏そして今日お会いした同志議員・渡部篤氏など真正保守政治家の一層の奮闘を祈ります。

帰宅後は、原稿執筆。

            ○

「國體護持」「靖国神社国家護持」ということは、真正保守・愛国維新を目指すわれわれの大きな使命であり責任であります。

しかし、我々国民が國體を護持して来たから日本国があるのではなくそ、その逆に天皇がおわしましたからこそ日本国があるのであります。日本国および日本国民は、ご歴代の天皇陛下によって護られてきたのであります。

ご歴代の天皇が、國の平安・国民の幸福を神に祈られ、国の平安と国民の幸福のために無私のご精神で君主としてのおつとめを果たされてきたからこそ、日本国および日本国民の今日があるのであります。

また、靖国神社に祭られている護国の英霊によって、日本国および日本国民が護られてきたのであります。

「國體護持」「靖国神社国家護持」とはあくまでも感謝と報恩の国民の務めとしてそれを果たすということであると思います。

そういう意味でも、権力機関や政治家が「皇室典範」を改定したり、権力機関や政治家が靖国神社の護国の英霊祭祀に介入する事は大いなる誤りであります。否、誤りであるばかりでなく、國體破壊であり、英霊への冒瀆であります。古賀誠氏などの今後動きを厳しく監視しなければなりません。

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2007年10月 9日 (火)

千駄木庵日乗十月八日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後からは在宅して、原稿執筆。「政治文化情報」の原稿です。永井荷風論を書きます。

           ○

最近寄贈を受けた書籍を紹介します。

和田耕作氏著『大戦争の表と裏』。富士社会教育センターの黒沢博道先生から頂きました。和田耕作氏は民社党代議士として活躍された政治家ですが、その経歴と申しますか人生は、まさに昭和史の生き証人、というよりも昭和の激動の歴史の中を、命がけで生き抜き活躍された来た方であります。

京都大学在学中かに共産主義革命運動に参加し、転向して、満鉄入社。そして昭和研究会・大政翼賛会・企画院に関係し、企画院事件で逮捕。応召してフィリピンのパターン作戦で九死に一生を得、再び満州調査部事件で逮捕、終戦を満州で迎え、ソ連軍の暴状を見聞し、さらにシベリア抑留されて過酷な生活を強いられました。

戦後は、民主社会主義運動で活躍しました。この本には以上のような激動の命懸けの人生をありのままに書かれています。これまで色々な人の自伝・体験記を読んだがこれほどの激動の人生記録は初めてです。未だ全てを精読していませんが、企画院事件・ゾルゲ事件・シベリアでの体験などは、昭和史の証言として大変重要だと思います。

民社党という政党は面白い政党で、企画院事件やゾルゲ事件などで摘発した側の内務省・警視庁の警視庁特高部長・内務省警保局長・警視総監・内務大臣を歴任した安倍源基氏の息子さんの安倍基雄氏も民社党衆院議員でしたし、摘発された側の和田氏も民社党衆院議員でした。

二冊目は、平沢勝栄氏著「政治家は楽な商売じゃない」。これは著者から頂きました。未だ精読しておりませんが、なかなかおもしろそうな内容です。しかし、書名だけでいえば、寄贈を受けてこんなことを言うのも失礼かもしれませんが、「政治家を商売と思ってもらっては困る」というのが実感です。

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2007年10月 8日 (月)

千駄木庵日乗十月七日

朝、宿舎を出発。岡山県の運動家・早瀬内海氏の御案内にて、和気町に鎮座する和気神社に参拝。

御祭神は、鐸石別命(第十一代・垂仁天皇の皇子で和気氏の始祖)弟彦王(鐸石別命の曾孫で神功皇后の三韓征伐の際、反乱をおこした忍熊王を和気関で平定し藤野県(現岡山県和気郡)を与えられ土着した)佐波良命・伎波豆命・宿奈命・乎麻呂命(和気氏の先祖で備前美作両国の国造。国造神社として別に祀られていたが、のちに合祀された)和気清麻呂公(天平五年(733)備前国藤野郡(現和気町)に生まれる。奈良の都に武官として出仕、近衛将監となる。神護景雲3年、僧道鏡が皇位を望むとき、宇佐八幡宮(現宇佐神宮)に勅使として詣で、神託を受け復奏、その野望を阻み国家の危機を救った。その後、桓武天皇の信頼を得て、摂津大夫・民部卿として長岡京の造営、摂津・河内両国の治水工事に当たった。延暦十三年(794)和気清麻呂公の建言により平安京に遷都。造営大夫として新京の建設に尽力した。また、和気清麻呂公は、備前美作両国の国造を兼ね、延暦7年、和気郡の河西に新しく磐梨郡(現赤磐市)を独立させ、農民の便宜をはかった。延暦十八年(799)に六十七歳で薨去)和気広虫姫(天平二年(730)に備前国藤野郡に生まれる。孝謙上皇(後、称徳天皇)に仕え、勅を伝宣する女官を務めた。上皇に従い剃髪し、法均と号した。天平宝字八年(764)、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の逆徒の助命を懇願して死刑を流刑に改め、乱後の孤児83名を養子として育てた。これはわが国最初の孤児院の開設である。日本後紀には「人と為り貞順にして節操に欠くる無し」「未だ嘗めて法均の、他の過を語るを聞かず」と称えられ、慈悲深く、清純で心の広い人柄であった)

創祀は、古くは和気氏一族の氏神として遠祖 鐸石別命(ぬでしわけのみこと)が祀られ、和気神と称せられていた。天正十九年(1591)に数町川下にあった社殿が大雨で流されたため、現在地に遷座した。

朝倉文夫作の「和気清麻呂公銅像」和気清麻呂公の御真筆と伝えられる「我獨慙天地」と刻まれた石碑を仰ぐ。

小森成彦宮司(和気氏の末裔)と懇談。和気清麻呂公の御事跡、神社神道の今日的使命と課題、真正保守運動・民族運動などについていろいろお話をうかがう。大東塾関係の方で、共通の同志・知人も多く、有意義にして楽しい語らいをさせていただいた。

この後、長船町の備前長船刀剣博物館参観。平安時代から今日までの名刀の数々を見る。

続いて、吉備津神社参拝。備中国一の宮。旧社格は官幣中社。主祭神は、大吉備津彦命(孝霊天皇の皇子。崇神天皇十年四道将軍の一人として山陽道に派遣され吉備を平定)。応永年間(約六百年前)に造営された神殿を仰ぐ。

この後、すく近くに建てられている犬養毅像を仰ぐ。

新幹線で帰京。

            ○

岡山は文字通り山紫水明麗しいところです。川の流れも滔々として清く美しく、山の緑も日に照り輝き、青空も澄み切っておりました。こうしたところに来ますと、日本は本当に良い国であると実感します。お世話いただいた早瀬氏に心より感謝いたします。

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千駄木庵日乗十月六日

朝、新幹線で東京駅を出発。岡山へ。和気町美しい森ビジターセンターへ。

午後五時より、小生が「今日の諸問題と愛国運動」と題して講演。終了後、懇親会。

          ○

久し振りに岡山を訪ねました。快晴でした。山陽道は温暖で明るいところです。

今晩は多くの若者たちに、内憂外患交々来るという状況にある現下日本の危機を打開するためには、明治維新の歴史を回顧しそれに学ぶべきである、ということを話させていただきました。

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2007年10月 6日 (土)

千駄木庵日乗十月五日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は原稿執筆、完成、送付。

夜は、明日の岡山における講義の準備。

           ○

日本は今日、北朝鮮にミサイルで脅かされ國民を拉致され、韓國やロシアには領土を奪われ、共産支那には領土と資源を狙われ内政干渉に屈している。今こそ日本國民全体がナショナリズム・愛國心を発揮して國難に当たるべき時である。

「しきしまの 大和心を 人問はば 蒙古のつかひ 斬りし時宗」

これは村田清風の歌である。

村田清風は長州の人。文化五年(一八〇八)二十六歳にして藩主・毛利齋房の近習になる。藩の制度改革・財政確立・士風作興に功績があり、國學明倫館を建て、江戸藩邸に有備館を建て、學問を振興させた。安政二年(一八五五)に七十三歳で病没。

本居宣長の「しきしまの大和心を人問はば朝日に匂ふ山ざくら花」を本歌取りした歌。北條時宗が弘安二年わが國に朝貢(日本が貢ぎ物を差し出して元の属國になること)を求めて来た元の使者を博多で斬った。この時宗の行為を大和心の典型であるとして讃えた歌。

今こそ、われわれ日本民族は、こうした「大和心」を興起せしめねばならない。そうしなければわが祖国は、大中華・小中華の属国になり果ててしまうか、米国の属国の地位から抜け出すことができなくなる。

明日は和気清麻呂公ゆかりの地に赴き皇国日本の歴史を偲びたいと思う。

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2007年10月 5日 (金)

千駄木庵日乗十月四日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後は原稿執筆など。

午後六時より、青山だの大東会館にて、「時局戦略懇話会幹事会」開催。当面する諸問題について討議。終了後懇親会。

             ○

日本民族は古来、祖靈と自然を神と崇め祭って来た。わが國の傳統信仰の祖靈崇拝と自然崇拝が、天皇を中心とする信仰共同體國家日本の土台、言い換えれば日本國體の根幹を成している。そしてそれは、國民道徳・道義精神の根幹でもある。

 わが國の神々の中で、最尊最貴の神として信仰され崇められている神であらせられる天照大神は、御皇室の祖先神であると共に、自然神である太陽神である。

 稲作生活を営んで来た日本人は、太陽・山・海・川など大自然の恵みの中に生きて来たので、自然を神と崇めた。また、祖先から稲の種と水田と農耕技術という恵み祖先から傳えられたので、祖先に感謝する思いが強かった。

  日本民族は、神に対して常に祭りを行ってきた。「まつり」は、日本民族の精神傳統・日本文化の原点である。「まつる」という言葉の原義は、「お側で奉仕し服従する」「何でも仰せ事があれば承りその通り行う」「ものを献上する」「ものを奉る」というほどの意であるという。

<敬神崇祖>というわが國の國民道徳の基本は、神學・教義という<抽象概念>として継承されて来なかった。それは、上は天皇から下万民に至る日本民族の生活の中の<神祭り><祭祀>という行事によって、古代より今日まで傳えられて来た。靖國神社の戦没者への祭祀は、そうした古来よりの日本民族の道義精神の典型である。

日本伝統信仰即ち神道は、自然の命と祖先の霊を崇める精神がその根幹であり全てである。それは日本民族の実際生活から生まれて来た信仰なのである。特定の預言者や絶対神の代理人と称する人が説き始めた教条・教義に基づく信仰ではない。ここが神道と教団宗教との根本的相違である。

つまり、わが国伝統信仰=神道はまことに大らかにして包容力旺盛な信仰なのである。この信仰精神が、民族紛争・宗教対立を繰り返してきた世界に平和を持ち来たす基となると考える。

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2007年10月 4日 (木)

千駄木庵日乗十月三日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。午後は、父のことで、診療所・薬局などに赴く。

午後六時より、永田町の村上正邦氏の事務所にて、「第12回日本再生 一滴の会」開催。南丘喜八郎氏が司会。

佐藤優氏が講演し、「九月に、村上・南丘両氏と共に吉野から二十キロ奥の西吉野村の賀名生(あのう)に行き、後醍醐天皇の御事跡と南朝の歴史を偲んだ。北畠親房の墓に参った。吉野では、後醍醐天皇御陵に参拝した。足利尊氏は後醍醐天皇の御霊を慰めるために天龍寺を造営したが、天の怒りはおさまらず、政治は乱れ、内裏に落雷した。南禅寺の僧侶に『後醍醐天皇と南朝の正確な記録をのこせば鎮魂できる』といわれてできたのが『太平記』。呪いを解くには歴史の真実を書き残さねばならない。私が『国家の罠』という本を書いたのも、鈴木宗男氏の魂を鎮めるためであった。鎮魂しないと鈴木氏の生霊が永田町・霞が関を漂うことを心配した。物書きの仕事は鎮魂。中西輝政氏の『諸君』今月号の論文は見苦しい。日本には十四世紀にすでに寛容と相互扶助の精神が確立した。北畠親房は寛容と相互扶助が国家を長持ちさせる秘訣であると『神皇正統記』で論じた。今言われている新自由主義には他者危害排除・幸福追求権を守るということがない。小泉は新自由主義に軸足を置いて、邪魔になるものは排除した。安倍政権崩壊の原因を正しく見ないと五年十年は立ち直れない。プーチンは、大統領辞任後、ロシアの国体を研究するという。老人が『この国に生まれて良かった』という国にしたいという。プーチンは再び大統領になり、ロシアを帝国主義的強国にする。ロシアは国家体制を強化しつつあり、日本は格差によって国家体制が弱体化している。北方領土問題が風化しつつある。北方領土問題は我々の世代で解決しなければならない。沖縄の集団自決は、住民に手榴弾を二つ持たせたのは、軍の関与と広義の強制があったということ。この問題を詰めていくと、沖縄は分離する。早くこの問題の幕引きをすべし。安倍政権崩壊は松岡氏の霊が鎮まっていないから。松岡氏の自殺の直後、閣僚がクールビズに着替えてはしゃいだ。『安倍総理萬歳』と言って自殺した松岡氏の心を受け止めないと駄目。安倍氏は国家が官僚によって成り立っていることを知らなかった。事務次官を誰にするかで全てが決まる。安倍政権が潰れたきっかけは小池・守屋戦争に翻弄されたこと。井上秘書官というノンキャリアをキャリアの上に立てたこと。国家は社稷から見れば外部。『愚管抄』の『百代で王朝は滅びる』という主張に反対し、『終わりはない』と喝破したのが『神皇正統記』。北畠親房の墓があれだけきれいに守られている限り、日本は不滅。福田内閣には『何もしないこと』を期待したい。戦没者追悼施設は絶対に作らせてはならない。人間が作った新たな霊の無い偶像を拝んではいけない。国のために死ぬ人を作り出さないと国家は成り立たない。顕彰がまずあってその後に慰霊がある。私はクリスチャンだが靖国神社参拝に何の矛盾も感じない。沖縄は革命の歴史を持つ中国よりも革命の歴史がない日本のアンブレラに入っていることが良い。」と語った。

大変重要なことが語られました。小生の感想は後日書きたいと思います。特にもの書きの仕事は鎮魂であるという主張に共感しました。「物語」とは霊魂が語るということです。「ものがたり」の「もの」とは霊のことです。「もの」(霊魂)をかたるのが「物語」であり、「もの」(霊魂)をうたうのが「歌」であります。

帰途、ある同志と懇談。

帰宅後は原稿執筆など。

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2007年10月 3日 (水)

千駄木庵日乗十月二日

午後は原稿執筆など。

午後六時より、ある政治家の会合に出席。

帰宅後は原稿執筆。『月刊日本』用の「萬葉集」の解釈です。

             ○

今日の夕方の会合では、いろいろな政治家が来て話をしました。面白かったのは、民主党の議員がテレビなどで激しく論戦を交わしている自民党の議員と仲良く握手をして「頑張って下さい」などと言っていました。あの激しい対立と論戦は一体何なのだろうかと思いました。

以前、国会の予算委員会で小泉総理に対する質問を終えた当時の岡田民主党代表に対して、橋本元総理が座ったまま声をかけ、「俺の答弁の方が良いだろう」と言ったら、岡田氏が笑いながら直立して何回も頭を下げていたのを傍聴席から見ました。

あるパーティーでは、共産党の上田耕一郎副委員長(当時)と自民党の参院議員が仲良さそうに話しているところに、新左翼系の遠藤誠弁護士(故人)が近づいて来て上田氏に「あなたは国際派だった」と言いました。上田氏は困った顔をしていました。左翼同士の方が仲が悪いのだというのを実感しました。また、党派対立と人間関係とはまた別のものなのだと思いました。

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2007年10月 2日 (火)

千駄木庵日乗十月一日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後からは在宅して原稿執筆。保守と変革、復古即革新をテーマとした原稿を書いています。

           ○

ミャンマーで軍事政権による反政府デモ弾圧を取材中の映像ジャーナリスト・長井健司さんが射殺された事件が大きな問題となっている。マスコミはミャンマー政府批判報道を連日行っている。わが国政府も駐日大使を呼びつけて抗議するなど、ミャンマーに対する批判を強めている。

確かに、わが国国民が射殺されたことは大問題であり、ミャンマー政府に抗議するのは当然である。

しかし、わが国のマスコミがこの問題でいきり立つのを見ていて不思議に思うのは、わが国の上海総領事館員が、共産支那特務機関に脅迫されて自殺に追い込まれた事件で、わが国のマスコミが今回のような大々的な支那政府非難を行わなかったことである。

週刊文春が報道して発覚したのだが、日本のマスコミは今回ミャンマーに対して示しているような糾弾報道姿勢を全く示さなかった。外務省も、支那政府に対して中国に対して口頭で抗議および真相の究明を要求しただけであった。しかも事件の真相の公表は行われず、支那特務機関員の処罰はもちろん支那政府のわが国に対する謝罪と遺家族への補償も全く行われず今日に至っている。

我が国のマスコミも政府も大国共産支那に対しては、かくのごとく軟弱・弱腰である。しかるに、ミャンマーのような小国と言っては失礼だが、支那のような軍事大国ではない国に対しては、居丈高に強硬姿勢を示すのである。戦後日本の外交に一貫している「弱い国に対しては強く、強い国に対しては弱い」という姿勢は日本の恥である。

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2007年10月 1日 (月)

千駄木庵日乗九月三十日

午前は父のお世話。訪問看護師の方と共なり。

午後からは在宅して、原稿執筆・資料整理など。

            ○

今、キリスト教やユダヤ教に関する本を読んでいます。そしてつくづく思いますのは、宗教というものの怖さということです。ユダヤ教・キリスト教・回教は同根であるにもかかわらず、二千年近くにわたって激しい宗教戦争を繰り返し、今日に至っております。一神教のみならず、仏教系の教団でも、宗派争いや内部抗争は凄まじいものがあります。日蓮正宗と創価学会の争いがその典型です。「ポア」とか言って殺人を肯定したオウム真理教も仏教系と言っていいでしょう。

一体、宗教戦争・宗教対立でこれまでどれ程の人が犠牲になってきたでしょうか。これに共産主義思想というのを加えますと、人類を幸せにすると広言する思想や宗教がかえって人類を闘争と殺戮に駆り立てといっても決して過言ではありません。そしてこのことは、今日唯今の現実なのであります。

私も、高校時代にある宗教団体に所属して、活動をしていましたので、自分の信ずる宗教教団そしてその教祖を絶対視する精神構造・心理状態というものを経験しました。反対者に対する憎悪というか、反発心というものが非常に強くなるのです。特に同じ教団に所属していたにもかかわらず違う生き方をするようになった人への憎悪はより激しいものとなります。近親憎悪であり、裏切り者・背教者への憎悪です。愛を説き、慈悲を説く宗教教団が、全くその逆の憎悪・排撃の心を駆り立てるのです。

ただ日本の場合、最初は相当排他的でも、時間がたつとそれか希薄になるようです。日蓮上人は、念仏の坊さんの首を由比ヶ浜で刎ねよと幕府に建言しました。しかし、いまや、谷中などの寺町では、念仏宗の寺と日蓮宗の寺か仲良く並んでいます。日蓮宗の坊さんに念仏宗の坊さんの首が刎ねられたという事件は起こった事はありせん。

私は、信仰心・宗教心とは、敬神崇祖の心が基本であると思います。その心さえ持っていればいいとさえ思います。ある特定の教団の教義や教祖・指導者を絶対視することは非常に危険でありますし、それが今日までの宗教戦争の根源にあるものだと思います。

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