« 千駄木庵日乗十二月一日 | トップページ | 千駄木庵日乗十二月三日 »

2006年12月 3日 (日)

千駄木庵日乗十二月二日

午後は、本駒込にある六義園に赴く。徳川五代将軍綱吉の側近柳沢吉保の屋敷跡。六義(りくぎ)とは、『古今和歌集』の「序」にある和歌の分類の六体に由来する。紅葉の名所で、今日も見事な紅葉がたくさん見ることができました。深山幽谷を思わせる道もあり、大変素晴らしい庭園であります。私は植物にうとくて、見事に紅葉した樹が何と言う名であるのか分からないのが残念です。

土曜日という事もあって、たくさんの人が来園していました。場所によっては立ち止まってはいられないくらい、後から後から人が歩いて来ました。以前行った、知床半島や奥入瀬渓谷の遊歩道でもそうした体験をしました。

夕刻、父のお見舞い。

帰宅後は、書状執筆。

                 〇

徳川幕府は言うまでもなく、武家政権でありますが、政治体制が安定して来ますと、幕府上層部も各大名も、朝廷のみやびな文化を学び、模倣するようになリました。徳川綱吉は歴代将軍の中でも、特に朝廷を尊崇し、文化を尊びました。綱吉の側近である柳沢吉保は、和歌に因んだ名前の庭園をつくったのであります。これは大変良いことなのですが、武士らしさを喪失してしまったという側面もあります。言って見れば貴族化したということです。元禄時代とはそういう時代でもありました。

「生類憐れみの令」などは、行き過ぎた文化重視政策・武家の貴族化の典型であります。そうした風潮に活を入れたのが、赤穂義士の吉良邸討ち入りであったという説があります。あるいはそうかも知れません。

ただし、赤穂義士に思想的影響を与えた山鹿素行は、近世における最大の尊皇思想家でありました。また、徳川綱吉が浅野長矩を切腹させたのは、勅使接待役に任ぜられながら、勅使の来られた江戸城を血で汚したことに対する怒りが強かったからだといわれています。武家専横の時代といわれる徳川時代においても、尊皇精神は絶えることはなかったのであります。

|

« 千駄木庵日乗十二月一日 | トップページ | 千駄木庵日乗十二月三日 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/121949/12911711

この記事へのトラックバック一覧です: 千駄木庵日乗十二月二日:

« 千駄木庵日乗十二月一日 | トップページ | 千駄木庵日乗十二月三日 »