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2006年6月13日 (火)

千駄木庵日乗六月十二日

午後は資料整理。

午後六時より、九段下沙龍。同志と懇談討議。

〇 

「言挙(ことあげ)せぬ国」という言葉があるように、日本にはあまりべらべら喋りまくって自己主張をすることを良しとしない考え方がある。「言挙せぬ」とは「理屈」「論理」を弄んだり振り回したりしないということである。だから日本人は、理論体系を作り出すことはしなかった。日本伝統信仰においては、一神教そして仏教の一部のように、特定の教義を絶対のものとしてこれを信奉し、これに反するものを排撃するということをしない。

 日本人は、人としての自然な情感・感性・驚きというものは大切にするが、そうしたものから遊離した超越的な『論理』『原理』と称するものを設定しない。なぜなら超越的な『論理』『原理』と称するものは、人が造ったものであり、嘘や独善と隣合わせであると直感するからである。

土井晩翆氏作詩の『星落秋風五丈原』に「嗚呼鳳遂に衰へて/今に楚狂の歌もあれ/人生意気に感じては/成否を誰かあげつらふ」とあり、三上卓氏作詩の『昭和維新青年日本の歌』には「功名何ぞ夢の跡/消えざるものはただ誠/人生意気に感じては/成否を誰かあげつらふ」とあるように、日本人は物事を「あげつらふ」ことを嫌った。

「あげつらふ」とは、物事の善し悪しについて意見を言い合うことであり、欠点・短所などを殊更に言い立てることである。それは人生や宇宙そして自然そのものを歪曲する危険がある。論理とか教義(イデオロギー)というものは宇宙や人生や世界や歴史に対する一つの解釈であり絶対のものではないのである。

私もこうしていろいろ書いていますが「あげつらひ」になっているのではないかと反省しています。

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