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2005年10月11日 (火)

日誌十月十日

終日原稿執筆。

数日前の本欄で、『論語』のことについて記しましたが、支那の民衆は長い間識字率がきはめて低かったので『論語』に讀解してゐなかったのではないでせうか。『論語』は支那の支配階級に属する人々の道義書であったと思はれます。

道義道徳が実行されてゐない支那は「論語読みの論語知らず」の國であるともいへますが、毛沢東独裁体制下の支那においては『論語』及び孔子は散々批判されてゐたのですから、民衆には殆ど読まれなかったでせう。ゆへに今日においても、支那の民衆が『論語』のことを正しく理解してゐる人は少ないと思はれます。

むしろ、わが国において、『論語』だけでなく、支那の古典が多く読まれ理解されてゐると思ひます。何しろ徳川幕府時代は、儒教が官製の学問として尊ばれてゐたのですから。

以前、かなり有名な支那問題の専門家が「中国の政治家は普段は聖人君子のやうに振舞ってゐるが、突然きはめて残虐になる」と私に語ったことがあります。私は蒋介石のことを言ったのかと思ひました。たしかに、台湾における二・ニ八事件、北京における二度にわたる天安門事件などを見ますと、支那の支配者は言う事をきかない民衆に対して残虐無比なる弾圧を加へ虫けらのやうに殺します。

いまや、仏教にしても、儒教にしても、一番実践されゐる國は我が日本であります。日本は、神道といふ傳統信仰を基本に置きながら、外来思想・宗教を自己のものとして来たのであります。

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