2021年1月25日 (月)

最近の新宗教は非常に元気がないは何故だろうか

最近の新宗教は非常に元気がない。活動家たちが老齢化している。それは共産党などのサヨク組織と同じだ。小生が十代の頃、即ち昭和三十年代、選挙のたびに各新宗教は組織を挙げて選挙運動に邁進した。創価学会は参院全国区で多くの候補者を立て、殆ど全員が当選した。学会は、選挙を戦うことによって組織を強固にし伸ばした。

それに対抗した立正佼成会も候補者を立て、長谷川仁というサンケイ新聞論説委員が高位当選した。生長の家・霊友会・仏所護念會・世界救世教という教団も候補者を立てその多くが当選した。

しかし、その実態はその宗教の信者が候補者になるのではなく、各教団は自民党の候補者を応援する集票マシンだった。私が活動してゐた生長の家も、例外ではない。重宗雄三、鹿島何とか云う歯医者、玉置猛夫という日本銀行役員などを当選させたが、彼らは生長の家信徒でも谷口雅春師門下でもなかった。当時の生長の家幹部にも、仙頭泰・菊池藤吉・森田征史の各氏など参院議員になれはそれなりの活躍をしたであろう人はいたが候補者になることはなかった。

そこで組織内から候補者を立てるべきだという意見か起こったが、当時の生長の家政治連合会長・田中忠雄氏は「組織内の幹部を立てろという意見があるがそういう人は高級靈ではありますが政治的にはパーであります」などとわけのわからない禅問答みたいなことを言っていた。

当時の生長の家は『大日本帝国憲法復元』を主張してゐたが、生長の家のお蔭で当選した人々がそのことに努力した人はいなかった。要するに生長の家は自民党に集票マシンとして利用されたのだ。

他の教団も実態は大体同じであろう。ただ創価学会だけは、「政教分離」の批判が起るまでは学会幹部が国会議員を兼ねた。だから公明党は今日も残ってゐるのだ。

そんなこんなで各教団も選挙運動に疲れたのかやってもメリットがないと分かったのが選挙に熱心ではなくなった。今日も各教団の支援を受けている議員はゐるだろうが、昔のような派手な選挙運動は行われてゐない。そのことが新宗教の活気というかエネルギーを失わしめているのである。創価学会も例外ではない。邪教撲滅、折伏大行進の戦闘性は喪失してゐるようである。ただし日蓮正宗宗門攻撃は続いてゐる。

|

2021年1月24日 (日)

德川幕府による朝廷圧迫の実態



慶応三年、大政奉還が行はれたが、徳川慶喜はこれに先立って、山城一国・二十三万石余を「禁裏御料」として献上した。それまでは「禁裏御料」「仙洞御陵」など色々な区別はあるが、朝廷・皇室の所領は四万石余で、小大名と同じくらいであった。徳川幕府は、「あめのしたしらしめすすめらみこと」に対し奉りこのやうな処遇をしてゐたのである。

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。

『岩倉公実記』には次の如くに書かれてゐる。「安永年中幕府厳に朝廷の会計を検束し、供御の丁度に制限を設け、当時の価格を以て御用品代価の標準を定む。爾後御用品の時価に低昂あるも、其費を増減するを許さず。此の如く供御の調度に制限を設くるを以て、和歌御用の懐紙短冊の如き些細の物品にも一箇年間消費の数に限り有りて、時々不足を告げ、近習の堂上、密に之に進献して其不足を補充すること有り。又諸物価年を追ふて騰貴するに由りて、御用商人は所謂本途直段を以て物品を調達するときは、損益相償はざるが為に、粗悪の物品を混合して以て其品目に充て、その員数に盈たしむ。是故に御膳の如きも魚菜八塩醃(注・魚、野菜などを塩に漬けて保存すること。また、その物。塩づけ)腐餒して食ふ可らざるもの多し…」。

幕府が朝廷の会計を厳しく制限したために、天皇が和歌をお書きになる懐紙も足らなくなり、御用商人はお買ひ上げ価格が低いので粗悪の品物を納品し、さらには、上御御一人が召上がる食べ物すら腐った物をお出しせざるを得なかったといふのである。かうなると徳川幕府は「不忠の臣」どころか「逆臣」と断定してもいいくらいである。

第百十代・後光明天皇は、父帝である後水尾上皇が御病気を憂慮あそばされ、お見舞ひにのために後水尾上皇の御所に行幸ありたき旨を京都所司代に仰せ出されたところ、所司代・板倉周防守重宗は、「江戸に申し遣はし幕府の許可を得なければなりませぬ」と申し上げた。後光明天皇は「それならば自分の御所の東南隅よりと院の御所の西北隅にかけて梯子でつなげ高廊下を早々に設けよ。廊下を渡るだけなら行幸と幕府も言はないだらう」と仰せられ、御病気見舞ひを強行あそばされたと承る。

つまり、天皇は、父君のお見舞ひのために御所を出られることすら自由にお出来にならなかったのである。

徳川幕府専横時代、寛永年間、三代将軍徳川家光が上洛した時に、後水尾天皇が二条城に出でまして以来、嘉永七年に、皇居が炎上し、孝明天皇が下鴨社に渡御あそばされるまで、上御一人は皇居の中から外にお出になることは出来なかったのである。しかも嘉永七年の孝明天皇下鴨社渡御は、皇居炎上といふ突発事故が無ければ行はれなかったのである。

このやうに、大変畏れ多い言ひ方であるが、天皇は、「てのひらほどの大宮所」しかもその中の天皇の住まはれる御所の中に厳しい経済状態で軟禁状態に置かれてゐたと言っても過言ではないのである。徳川幕府の天皇・皇室への圧迫・迫害は許し難いものであった。

阪本健一氏は次のやうに論じてゐる。「近世において、天皇の御在位中、皇居の外への行幸は、寛永年中、三代将軍家光の時、二条城へのいでましのみである。御室の花は咲けども、嵐山の楓は紅葉すれども、そのいでましはなかったのである。もちろん幕府の政策のしからしめたところであって、志士仁人が憂憤興起した所以もまたそこにあった」(『天皇と明治維新』)。

徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その実態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

阪本健一氏の言はれる「志士仁人」たる高山彦九郎、蒲生君平の歌に表白されてゐる皇室の式微を嘆いた憂憤恋闕の情、そして、皇陵修復と天下を周遊して志士を鼓舞する行動は、尊皇運動の先駆であった。そして、明治維新・王政復古・朝威回復を目指した志士たちの思想的基盤の一つとなり、計り知れない影響を与へたのである。

|

2021年1月23日 (土)

吉田松陰の根本精神は絶対尊皇思想である

松陰は、「本邦の帝皇、或は桀紂の虐あらんとも、億兆の民は唯だ当に首領を並列して、闕に伏し号泣して、仰いで天子の感悟を祈るべきのみ。」(安政三年「斎藤生の文を評す」『丙辰幽室文稿』所収。本邦の帝皇に、あるいは桀王や紂王のやうな残虐な行為があったとしても、億兆の民はただ頭を並べて、天子の宮殿の門の前に伏し、号泣して、祈るべきのみである、という意)と論じている。

この絶対尊皇思想は、山崎闇斎の思想に通じるものがある。村岡典嗣氏は、「(注・尊皇思想の近世における)最も代表的なものを山崎闇斎を祖とする垂加神道の所説とする。曰く、日本の天皇は、支那に比すれば天子ではなく天そのものに當る。…儒教でいへば、大君の上に天帝があり、勅命の上に天命がある。しかるに我國では、大君なる天皇は即ち天帝であり、勅命はやがて天命である。されば君不徳にましまして、無理を行はれるといふやうなことがあっても、日本では國民たるものは決してその爲に、天皇に背き奉りまた怨み奉るべきではないことは、恰も天災がたまたまあったとて、ために支那に於いて、天帝に背き、また天帝を怨むべきではないとされるのと同様である、と。…これこそまさしく、わが國民精神の中核を爲した絶対尊皇思想である。」(『日本思想史研究・』)と論じている。

 日本における変革は、天皇を原基として行われて来た。天皇國日本の本来的あり方への回帰即ち日本國體の明徴化が、そのまま現実の変革となるというのが、わが國維新の本質である。

また、政治変革によって権力の移動は行われても、天皇の國家統治は決して変らない、言い換えると政体変革はあっても國體変革は絶対にあり得ないというのが、日本の道統である。その根底には、まさに天孫降臨・日本肇國以来、日本國民の心の奥底にあり続けた「天皇信仰」がある。

安政六年十月二十日付の「諸友に語(つ)ぐる書」には「聖天子宵衣旰食(せういかんしょく・朝早く起き日暮後遅く食事をとる、即ち君主が國事に精励される意)、夷事を軫念(しんねん・天子が心を痛めること)したまひ、去年来の事、豈に普率(普天率土・全世界)の宜しく傍観坐視すべき所ならんや。是れ宜しく今日天子の為めに死すべし」と書いている。

「天子の御為に命を捧げる」といふ尊皇精神・勤皇精神の極を説いている。吉田松陰の根本精神は絶対尊皇思想であった。

|

2021年1月22日 (金)

「忠孝一本の國民精神」を命懸けで表白した松陰の辞世歌

安政六年十月二十日、死罪に処せられることを察知した松陰は、故郷の父叔兄に宛てた手紙において、「平生学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立到り申し候。」と書き、

「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」

といふ歌を記した。あふれるばかりの思ひとはりつめた精神が五・七・五・七・七といふ定型に凝縮されてゐる。かかる思いは和歌によってしか表現され得ないであろう。この松陰の歌こそ、「忠孝一本の國民精神」を命懸けで表白した歌である。

徳富蘇峰はこの歌について「死するに際して、第一彼れの念頭に上りし者は、その父母にてありしなり。…かくの如き人にしてかくの如き事を作す、不思議なる忠臣を孝子の門に求るの語、吾人実にその真なるを疑う能ず」(『吉田松陰』)と論じている。

そして、吉田松陰は判決が下る直前の安政六年十月二十五日から二十六日にかけて『留魂録』を書きあげた。その冒頭に、

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」

という歌を記した。
末尾には、

「心なることの種々かき置ぬ思のこせることなかりけり」
「呼たしの声まつ外に今の世に待へき事のなかりける哉」
「討れたる吾をあわれと見む人は君をあかめて夷払へよ」
「愚なるわれをも友とめつ人はわかとも友とめてよ人々」
「七たひも生かへりつゝ夷をそ攘はむこゝろ吾忘れめや」

といふ辞世の和歌を記した。
「討れたる」の歌は文字通り命を懸けた尊皇攘夷の志の表白である。日本の國家的危機を救ふ根本原理は、実に「尊皇攘夷」である。
十月二十七日朝、死罪の判決を受けた松陰は、

「吾 今 為 國 死 死 不 負 君 親 悠 悠 天 地 事 観 照 在 明 神」(吾今國の為に死す 死して君親に負かず 悠悠たり天地の事 観照明神に在り)

といふ辞世の漢詩を遺した。

明治元年(一八六八)九月、明治天皇御東行に供奉した松陰門下の木戸孝允は、その日記九月二十一日の項に、

「(注・安政六年)六月中旬深川に至り、松陰師の江戸拘引せらるを聞き、歎驚及ばず。同秋続きて江戸に至る。而し間日なく終に幕府の為殺戮を受く。窃に其の首体を奪ひて骨原(こつがはら)に葬る。其の後若林に改装し、又甲子(元治元年)の変(注・第一次長州戦争)、幕の毀つところとなる。此の間の事言ふに忍びざるなり。余今日生存して未曽有の盛事に遭遇し、鳳輦に扈陪して関左(注・南を向けば東は左であるところから関東のことをいふ)に入り、而して諸同志に見る可からず。悲歎こもごも到る。…往時を追憾し、涕雨の如し」
と記した。

明治維新断行後、明治天皇に供奉して東京に来た木戸孝允は、吉田松陰が処刑された当時の事、そして第一次長州戦争の時、世田谷若林の長州藩の土地に埋葬された松陰の墓まで毀損されたことを思ひ出しているのである。

維新の先駆者たる吉田松陰の志は門下生達に強烈に引き継がれ大きく花開き、徳川幕府は打倒され、維新が成就した。現代においても、明治維新を目指して戦った志士たちの悲しい志を自己自身の上に回想しわが血を沸き立たせることが大切である。

内憂外患交々至るといった状況にある今日こそ、吉田松陰の如く、日本民族の本来的な清明心・尊皇精神に立脚した大和魂を奮ひ立たさなければならない時である。

|

2021年1月21日 (木)

どうしても書かずにはゐられませんでした。

アメリカの政治家にも案外人材がゐないのですね。トランプは激しすぎるし、バイデンという人は全く知りませんでしたが、中華帝国主義と戦うには少し年を取りすぎてゐます。やはりトランプの方が良かったのでしょう。

しかし今更こんなことを書くのはどうかしてゐるという人もゐるかと思いますが今日流れていた「星条旗よ永遠なれ」を聞きつつ、この歌を国歌として歌っていた人たちによって広島長崎に原爆を落とされ、東京大空襲で十万人以上も焼き殺された歴史は忘れてはならないと思います。こんなことを書くのは止めようかと思いましたが、どうしても書かずにはゐられませんでした。

|

2021年1月20日 (水)

国会議員の七十三歳定年というのは反対です。

私が七十四歳になるためということもありますが、国会議員の七十三歳定年というのは反対です。選挙に勝ったらいくつでも議員になって良いと思います。ましてこれだけ高齢化社会になってゐるのですからそれは当然です。若手のチンピラ議員ばかりでは良い政治はできないと思います。

|

2021年1月19日 (火)

千駄木庵日乗一月十九日

午前は、親族来宅。室内清掃。

 

午後からは、『政治文化情報』発送準備。

 

夕刻、千駄木にて、久しぶりに同志と懇談。その同志の方々が出版社を立ち上げたので、今後の戦略を練る。尊皇・興亜・維新を目的とした出版社で、二人の志の高さに敬意を表する。小生も非力ながらも出来るだけのお手伝いはさせていただきたく思っている。

 

お酒を呑みうまき物を食すると自然に話も弾み、体調の悪さも忘れてしまう。従いまして、マスクをしながら飲食をするなどということは実際にはあり得ません。

 

|

2021年1月18日 (月)

千駄木庵日乗一月十八日

行きつけの店で休業している店が出来て困っています。五時に開店して八時に閉めなければならないのでは商売にはならないと店の人は言っていました。そもそも勤務時間が午後五時までなのに五時から飲み始める人は非常に少ないということです。私は時間の調節ができますが、なかなかできない人も多いでしょう。飲食店は大変な困難を強いられています。テイクアウトの物を買って帰り家呑みをするというのも一人者には非常にわびしい。

|

今の野党に政権を担える政治家はいない。ただから自民党政権が続くのだ。

菅内閣の支持率が低下したとメディアが騒いでいるが、ではどんな内角なら支持率が上がるのか。枝野内閣や志位内閣では支持率は全くあがらないであろう。

では一体どういう内閣がいいのか。そしてそれが国民の支持を得られるのか。

今の野党に政権を担える政治家はいない。ただから自民党政権が続くのだ。

|

2021年1月17日 (日)

明治維新における「攘夷」とは、かたくなな排外思想ではない


明治維新は、尊皇攘夷思想を基本として祖国の危機を乗り切らんとした西南雄藩や尊皇の志士達と、德川幕府体制を堅持して外患を除去せんとした思想を基本とした徳川幕府の激突であったことは確かである。

しかし、明治維新における「攘夷」とは、かたくなな排外思想ではない。吉田松陰をはじめ維新の志士たちは時代の趨勢を正しく把握してゐた。松陰は敵たるアメリカを認識せんとしてアメリカ渡航を実行しやうとした。

真の攘夷精神を端的に示してゐるのが土佐藩士・中岡慎太郎(土佐の郷士。天保九年【一八三八】生。名は道正。薩長二藩の提携に尽力。慶応三年【一八六七】十一月京都で坂本竜馬とともに刺客に暗殺された)が、慶應二年(一八六六)に書いた次の文章である。

「それ攘夷と云ふは、皇國の私言にあらず。その止むを得ざるに至っては、宇内(註・世界中)各國、皆これを行ふものなり。米利堅(註・アメリカ)かつて英國の属國なり。時に英吉利(註・イギリス)王、利を貪る日々に多く、米民ますます苦しむ。因って華盛頓(註・ワシントン)なる者、民の辛苦を訴へ、是に於て華盛頓、米地十三邦の民を帥(ひき)ゐ、英人を拒絶し鎖國攘夷を行ふ。此より英米連戦七年英ついに不勝を知りて和を乞ひ、米利堅是に於て英属を免れ独立し、十三地同盟、合衆國と号し一強國となる……皇國当今、和親開港の如きは、幕吏彼の兵威に怖れ、上天子の勅意に違ひ、義理の当否、國の利害を計らず、……往々彼(註・外國)の命ずる所のまま(註・関税権を奪はれたこと)にて、萬民殆ど途端に苦しむ。……是故に萬々願くば天下の士民、……薪に座し胆を嘗むるの思を為し、……吉田松陰の攘夷の志によって海外に渡り、彼の長を取らんと企てしことなどを思ひ、その心を心とし、上下一致学術に励み、兵力を養ひ、早く攘夷の大典を立て、諸港の条約を一新し(註・不平等条約を改正すること)……会稽の恥(註・外國から受けたひどい辱めのこと)を雪(そそ)がざれば、死するとも止まずと決心する…」(『愚論ひそかに知人に示す』)。

この文書は、攘夷とは外國の侵略から祖國を守るために戦ふことであり、徳川幕府それを実行できなかったのであり、日本中の人々は上下一致して、耐へ難きを耐へて努力し、外國の長所を取り入れてみずからの國を強國にして、外國からの辱めを晴らして名誉を挽回しなければならないと論じてゐる。

そして、真の攘夷のためには海外の接触し「彼の長を取る」事も必要であるといふのである。これが明治維新をめざした人々の攘夷の精神であった。

井伊直弼主導の幕府の開港策は進歩的であり、朝廷などの攘夷の主張は保守的とするのは誤りである。上御一人・孝明天皇も、草莽の士・吉田松陰も、わが國の神代以来の伝統精神を回復し民族の主体性を確立し独立を堅持した上での外交との交際を期したのである。

|

«維新の戦いで命を国事に捧げた人々はその殆どがすぐれた詩歌を遺してゐます。しかし、維新で大きな活躍をした人でも、畳の上で亡くなった人は詩歌を遺してゐる人は少ないようです。 政治権力者政治的覇者は詩歌はあまりいい作品を遺さないのでしょう