2021年3月 5日 (金)

「現行憲法」には、天皇及び日本國家の時間的連続性・歴史的伝統性がまったく書かれていない


「現行占領憲法」はまさに國體破壊・國體隠蔽の亡国憲法である。一刻も早く全面否定しなければならない。「現行占領憲法」は「日本の歴史や伝統、わが国独自の国柄」についてはどこにも書かれてゐない。「現行占領憲法」はまさに無国籍・國體破壊・國體隠蔽の亡国憲法である。一刻も早く改正か失効宣言が必要である。しかし、改正も失効宣言も文字通り「七十四年河清を待つ」難事である。しかも、先帝陛下も今上陛下の「憲法を守り」と繰り返し仰せになってゐる。非常に悩ましいことである。日本国民が絶対に守るべき規範である「承詔必謹」と我々の永年の主張である「現行憲法否定」とをどう考へればいいのであらうか。以上が、小生が最近、天皇・皇室と憲法について思ってゐる重要問題である。

日本の伝統的な國體思想おける天皇は、「日本の統治者、統べ治める方である」と仰がれてきた。
天地開闢以来、國家の統治者たる天皇の地位は変はらないものであることを、「現行憲法」は隠蔽してゐる。天皇を非常に限定的なご存在として規定してゐる。

 天皇陛下は日本國民を一つに統合する中心的存在、空間的に國家と國民を統一、統合するという御役目を持ってゐる。「現行憲法」もそれを否定できず、「日本國憲法」といふ名の「占領憲法」の第一条には、「天皇は日本國の象徴であり、國民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本國民の総意に基づく」と書かれてゐる。

しかし、なにゆゑ天皇が空間的に國家と國民を統合されるのかが、今の「占領憲法」には書かれてゐない。

 國家・人間は空間的存在であると共に時間的存在である。時間と空間、時間といふ縦軸と空間といふ横軸の中心にあるのが人間であり、國家である。

天皇も然りである。ところが、「現行憲法」には、天皇及び日本國家の時間的連続性・歴史的伝統性がまったく書かれてゐない。

三島由紀夫氏は、「歴史、傳統、文化の連續性と、國の永遠性を祈念し保障する象徴行爲である祭祀が、なほ最も重要な仕事であり、存在理由であるのに、国事行爲としての『儀式』は、神道の祭祀を意味せぬものと解され、祭祀は天皇家の個人的行事になり、國と切り離されてゐる。しかし、天皇が『神聖』と完全に手を切った世俗的君主であるならば、いかにして『象徴』となりえよう。『象徴』が現時點における日本國民および日本國のみにかかはり、日本の時間的連續性と關はりがないならば、大統領で十分であって、大統領とは世襲の一點において異なり、世俗的君主とは祭祀の一點において異なる天皇は、まさにその時間的連續性の象徴、祖先崇拝の象徴たることにおいて、『象徴』たる特色を擔ってゐるのである」(『問題提起』(日本国憲法))と論じてゐる。
 
三島由紀夫氏が『文化防衛論』で説かれたやうに、天皇は時間的連続性、歴史的伝統性を保持しておられる。そしてそのことが、まさに日本を統一、統合できる神聖な御方である根拠なのである。
 
天皇が、日本國の歴史と伝統、また日本國民の過去、現在、将来における日本國民の伝統的な意思といふものを体現される御方といふことが、「憲法」に明確に規定される必要がある。

『現行憲法』は天皇の神聖性を全く取り除いてしまってゐる。そこに日本の道義的頽廃の原因の一つがあると思へる。
 
「現行占領憲法」は、押し付け当時のアメリカ占領軍の中でも、左派、共産主義者に近い人が起草したと言はれてゐる。将来的には日本の君主制を廃止すべきであるという戦勝国の企みのもとに押し付けられたのが「現行占領憲法」である。

ともかく、「國民統合の象徴」といふ言葉だけでは、天皇の御本質は正しく明示されない。やはり「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といふ「大日本帝國憲法」の規定が正しいのである。憲法には萬世一系という歴史的伝統性が明示されなければならない。

|

2021年3月 4日 (木)

今日は懐かしい思い出にひたった一日であった

朝から病院に赴き、午前九時ごろから診察と検査を受けたが、待たされ続けた一日であった。レントゲン検査、血液検査、医師の診察と問診、治療費の支払い、栄養士との相談、看護師との相談などすべて終了したのは、午後三時過ぎであった。

病状が進行しているので、色々注意を受けた。ともかく塩分摂取を少なくしないとまたまた入院になるとの厳しい注意を受けた。ラーメン、焼き肉、焼き鳥などは食べないようと言われた。私の好きなものばかりである。この一か月油断をしてこれらの物をパクパク食べたのかいけなかった。

医師から、介護サービスのケアマネージャーとよく相談下さいと言われたが、介護事務所に電話するとケアマネージャーが不足していてとても相談に乗れないとのことであった。そこで、医師の指示で文京区高齢者安心相談センターという所に行き、相談してもらった。介護認定にから始めなければならない。ついこの間両親の介護の相談に行っていたのにもう私自身のことを相談しなければならないことが悔しい。

そしてこの後、久しぶりに千駄木の街を散策。ほんの三十分ほどであったが、楽しかった。安田財閥の人が住んでいた屋敷、高村光雲・光太郎・豊周の屋敷、宮本顕治・百合子夫妻が住んでいた屋敷跡、元内務省警保局(現警察庁)官舎・新潟の大地主市島家の屋敷跡、茶道武者小路千家東京道場、大平正芳元総理邸跡、大給松平家邸跡そして小生の母校千駄木小学校などをめぐる。残念なのは、私が幼い頃からあった屋敷の殆どが壊され、新しい建物が建てられていることであった。相続税取り立てのためであろう。

千駄木は、昔は駒込林町・駒込坂下町と言っていたが、今は千駄木三丁目と五丁目という町名になっている。団子坂・大給坂・狸坂という三つの坂がありその坂の上が屋敷町、下が長屋が多い文字通り下町であった。小生の家は坂の下である。今日は懐かしい思い出にひたった。

|

2021年3月 3日 (水)

天皇の国家統治の意義

 天皇の国家統治の「統治」といふ言葉を<やまとことば>で言へば「しらす」「しろしめす」である。「天皇が民の心を知りたまふ」「天皇の御心を民に知らせる」ことが「統治」なのであると思ふ。祭り主たる天皇が民の心を知りそれを神に申し上げ、さらに神の心を承って民に知らしめることが天皇の国家統治の本質である。このことによって「君と民とは相対立する存在ではなく、精神的に一体の関係にある信仰共同体」としての日本国が成立する。

 萬葉集歌人・大伴家持はその長歌で、「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の國には…」(四0九四)と歌ってゐる。現代語に訳せば、「この豊葦原の瑞穂の國を、高天原より天降られまして御統治あそばされました皇祖邇邇藝命から御代を重ねられ、天津日嗣として天の下を御統治になった御歴代の天皇の御代御代、治められたこの四方の國は…」といふほどの意である。

 さらに『萬葉集』には、「泊瀬朝倉宮御宇天皇代」(はつせのあさくらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)とか「高市岡本宮御宇天皇代」(たけちのをかもののみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ)と記されてゐる。

 天皇統治は、天の神の御委任により天の神の地上における御代理としての天皇が天の下をお治めになるといふ雄大なる神話的発想に基づくのである。漢字表現は支那のものであっても、信仰自体は日本固有のものであって、神話時代より継承されてきたのである。人為的に権力・武力によって民と国土を治めるのではなく、あくまでも神の御心のままに宗教的権威によって国民と国土を治めるといふのが天皇の国家統治である。

 <やまとことば>ではまた「統治」のことを「きこす」「きこしめす」(「聞く」の尊敬語)とも言ふ。天皇が民の心を聞かれるといふ意味であらう。

 日本を統治するために天の神の命令により天から天降られた天孫邇邇藝命の父にあたられ、天照大神が邇邇藝命の前に地上に天降らせようとした神を正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと                        かむぬなかはみみのみこと)と申し上げる。さらに、神武天皇の御子・綏靖天皇を神沼河耳命と申し上げる。日本国の統治者・君主は「耳で聞く」ことを大事にされていたので「耳」という御名を持たれたと思われる。

 『古事記』には仁徳天皇の世を聖帝の世というと記されている。仁徳天皇は、高い山に登って四方の国をご覧になり、「国の内に炊煙が立たないのは国民が貧しいからだ。これから三年間国民から税金を取るのをやめよう」と仰せられた天皇で、聖帝と讃えられた。

 日本思想体系『古事記』の「補注」において佐伯有清氏は、「(聖帝の注)『聖』とは、耳と呈(貞即ち正)から成り、耳聡く聞き分ける人、神秘的な洞察力のある人物。農耕社会では時候の推移を洞察して農事を指導することが、対立する主張を聴取して調整することと共に、王たるべき者の責務であるから、聖と王とは結びつきやすい」と論じている。また『角川当用漢字字源辞典』(加藤常賢・山田勝美著)によれば、「意味を表わす『耳』と『口』と、音を表す『壬』とからなる形声字。…耳の穴がよく開いていて普通人の耳に聞こえない神の声の聞こえる意。…古代社会においては、普通人の聞きえない神の声を聞き分けうる人を『聖』と呼んだものであろう」という。

 一般人が聞きえないことを聞く人というのは、聴覚器官が普通の人より発達している人ということではなく、神霊の声を聞く人ということであり、祭り主ということである。神の声を聞いて民に伝え、民の声を聞いて神に申し上げるという神と人とをつなぐ役目を果たされる祭り主が天皇のなのである。

 また、<やまとことば>の「ひじり」(漢字では聖と書く)とは、「日を知る人」の意であるという。日とは文字通り太陽のことであり、天体の運行に通暁している人のことである。天体の運行即ち暦は農業にとってきわめて重要である。これを知っている人は農耕国家の君主たる資格を持つのである。また「日」は「霊」であり、「ひじり」は「霊力を有する神聖な存在」という意味でもある。
 『萬葉集』に収められた「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麿朝臣の作れる歌」という長歌の冒頭に、「玉だすき 畝傍の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを…」とある。これは「(『玉だすき』は畝傍にかかる枕詞注)畝傍の山の橿原に都を開かれた日知りにまします(神武天皇の注)御代以来、(『つがの木』はつぎにかかる枕詞注)この世に降臨された現御神はことこどくみな天下を御統治になられたが…」というほどの意である。ここにも「日知り」という言葉が登場する。本居宣長は、「日知り」を「日の如くして天下を知らしめすといふ意なるべし」としている。「日の神・太陽の神の如くわけへだて無く天下を統治される天皇の御代」を「日知りの御代」と言ったのである。

 仁徳天皇と同じように聖帝とお讃え申し上げる昭和天皇陛下は、
 
 さしのぼる朝日の光りへだてなく世を照らさむぞ我がねがひなる

 とお詠みになっておられる。これは文字通り、<日の御子><現御神>としての神人合一の無上の御境涯を高らかにお詠みになった尊い御製であると共に、「昭和天皇は、昭和二十一年元旦の詔書において『人間宣言』をされ、天皇は神から天皇になった」などという議論が全く誤りであることを証明する御製である。 

 ともかく、日本伝統の「ひじり」についての考えと支那の「聖」という字の意義とが結合して「聖帝」という考えが生まれたのである。

 このように民の心を知りたまい(しろしめす)聞きたまう(きこしめす)ことが天皇の国家統治の基本なのである。

|

2021年3月 2日 (火)

絶対尊皇思想について


竹内式部は、「代々の帝(みかど)より今の大君に至るまで、人間の種ならず、天照大神の御末なれば、直に神様と拜し奉つり、御位(みくらゐ)に即かせ給ふも、天の日を繼ぐといふことにて、天津日繼(あまつひつぎ)といひ、又宮つかへし給ふ人を雲のうへ人といひ、都を天(あめ)といひて、四方の國、東國よりも西國よりも京へは登るといへり。譬へば今床の下に物の生ぜざるにて見れば、天日(あまつひ)の光り及ばぬ處には、一向草木さへ生ぜぬ。然(さ)れば凡そ萬物(よろづのもの)、天日の御蔭を蒙らざるものなければ、其御子孫の大君は君なり、父なり、天なり、地なれば、此の國に生(いき)としいけるもの、人間は勿論、鳥獸草木に至るまで、皆此君をうやまひ尊び、各(おのおの)品物(ひんぶつ)の才能を盡して御用に立て、二心(ふたごころ)なく奉公し奉ることなり。故に此の君に背くものあれば、親兄弟たりといへども、則(すなはち)之を誅して君に歸すること、吾國の大義なり。況や官祿いたゞく人々は、世に云ふ三代相傳(注・所謂封建的主従関係。例へば将軍と旗本、大名と藩士の間柄を指す)の主人などといふ類にあらず。神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至まで大恩を蒙むる人なれば、其身は勿論、紙一枚絲一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我が身のものと思ひ給ふべからず。わけて御側(おそば)近く奉公し給ふ人々は、天照大神の冥加にかなひ、先祖神靈の御惠みに預かり給ふ御身なれは、いよいよ敬まひかしつき奉る心しばらくも忘れ給ふべからず」「吾君(わがきみ)は眞に神といふこと返す返すも忘れ給ふべからず、然るを淺(あさ)はかに心得、君を怨みねたむ人は、其身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推(お)しては天下の亂にも及ぶ事、古今其例多し。愼むべし。楠正成の言葉に、君を怨むる心起らば、天照大神の御名(みな)を唱ふべしとあるも、天照大神の御恩を思ひ出さば、則(すなはち)其(その)御子孫の大君たとひ如何なるくせ事仰せ出さるるも、始めより一命さへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや」「皇后に奉公し給ふも同じ事なり、皇后は大君と並び給ふ御方にて、天地陰陽日月とならび給ふ御方ゆゑ、君と同じく敬ひ給ふべし」と論じてゐる。


この竹内式部の尊皇思想について葦津珍彦氏は、「ここでは人間は無論のこと、鳥獣草木にいたるまでのものが、勤王でなくてはならず、天皇は宗教的神そのものであると断せられている。それはまったく人間関係を超絶せるものであって、三代相伝の主人(封建武士階級の君主)と臣下との人間対人間の忠誠関係などというものとは、まったく類を異にする、異質のものだというのである。…忠の対象たるべき天皇は、天そのものと同一視され、人間ではなくして、天そのものとなり、逆に人間関係としての封建的忠誠は、その類にあらず、として蔑視されてしまうことになる」(『萬世一系と革命説』・「天皇―日本のいのち」所収論文)と論じでゐる。


天皇と民との関係は、決して人間と人間との関係ではなく、天皇は現御神であり、この世に於ける神であらせられるのである。絶対的にまつろひ奉るのが民の道なのである。


本居宣長は、「から國にて、臣君を三度諌めて聽ざる時は去といひ、子父を三たびいさめて聽ざるときは泣てしたがふといへり、これは父のみに厚くして、君に薄き悪風俗也。…皇国の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者去べき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ悪くましまして、従ふに忍びずと思はば、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知べし、たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり…然れば君あししといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて、従ひ奉るは一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其益広大なり」(『葛花』)と論じてゐる。


天皇は現御神であらせられ、絶対的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇・皇太子の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下・皇太子殿下をあからさまに批判する事は絶対にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。楠正成が言はれた如く「仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし」なのである。また、竹内式部が言ふごとく「大君たとひ如何なるくせ事仰せ出さるるも、始めより一命さへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや」なのである。


天皇陛下・皇太子殿下が間違ったご命令を下されたりご行動をされてゐるとたとへ思ったとしても、国民は勅命に反してはならず、まして御退位を願ったりしてはならない。どうしても従へない場合は自ら死を選ぶべきであるといふのが、わが国の尊皇の道であり、勤皇の道であるといふことを本居宣長先生は教へてゐるのである。

|

2021年3月 1日 (月)

共産・立憲という亡国野党は、人権無視の官僚苛め吊るし上げを繰り返し、共産支那の手先ミャンマー軍部の民衆殺害に何の抗議もしない

何かというと「人権人権」と騒ぎ立てる共産・立憲という亡国野党は、人権無視の官僚苛め吊るし上げを繰り返し、共産支那の手先ミャンマー軍部の民衆殺害に何の抗議もしない。立憲・共産に政権を取らせてはならない。

|

武士道精神と人権

『現行占領憲法』には、「第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」「第十三条 すべて国民は、個人として尊重される」とある。

人権尊重・個の尊重を全てに優先させることはかえって人権を蹂躙し、個人の尊厳性を奪うことになるのは、今日の我が國を見れば明らかである。教育荒廃・家庭崩壊・凶悪犯罪の増加の根本原因は、「自分さえよければ他人はどうなっても構わない」という観念が蔓延しているところにある。これは「個の尊重」「人権尊重」を絶対視して、共同体・家族・家庭と個人との共生を軽視してきた結果である。

 我が國は「基本的人権の尊重」という美名のもとに、自己の欲望と他者の欲望とのぶつかり合いの世の中となりつつある。人々は、快と不快だけで生き、目に見える至近の距離の世界のみで生きるようになる。「欲望こそ全て」と考える。そして教育荒廃・家庭崩壊が起こり、悪平等が花開き、凶悪犯罪が増加している。

人権重視・人命尊重が声高に叫ばれ、武道は封建道徳・軍国主義といわれて排除されて続け六十五年以上を経過した今日の日本は、軍国主義時代だったといわれる戦前の日本ではとても考えられないような凶悪なる青少年犯罪が日常茶飯事になっている。これは武の精神・武士道を否定した戦後日本が如何に間違った道を歩んだかを証明している。

 武士道は、忠誠・名誉・尚武・勇気などを重んずる。武士の倫理観は、忠孝、廉恥(心が清らかで、名を惜しみ恥を知る心がつよいこと)、義勇、侠(一身を顧みずに弱い者を助けること)、自己の責務を果たすこと、といわれている。

 今日の日本に一番欠けているのが、このような武士道精神である。わが国はグローバルスタンダードなどと言っていたずらに外国の真似をして外国と同じになるのではなく、日本人としての倫理観に磨きをかけるべきである。
 
特に政治家と官僚と財界人と教育者とマスコミ人にそれが求められる。武の精神をなくした政治家はしっかりとした判断を下せなくなっている。確固とした人生観・見識・倫理観を持たない悪しき民主主義即ち『自分さえ良ければ他人はどうでもいい』『皆がやっているからそれでいいという』という精神・習慣を改めなければならない。わが国の伝統的倫理精神たる武士道を今に生かさなければならない。

|

2021年2月28日 (日)

現行憲法という無国籍憲法を全面否定すべきである。

 現行憲法の「基本的人権の尊重」の「基本的人権」とは、人間として生活するために当然に認められなければならない基本的権利のことであると言われてゐる。その権利は國家に先立って人間が生まれながらにして持っているとされる。これを天賦人権という。そして「基本的人権」は、普遍性・不可侵性・永久性・固有性という根本的性格を持つものとされる。ゆえに、基本的人権はなにものにも優先されなければならないとされる。

 こうした思想は、絶対君主が人民の権利を奪い抑圧した西洋の歴史から生まれた「國家と個人は対立する存在である」という理論に基づく。これは國家を信仰共同体として把握する日本の國體精神とは無縁の思想である。

 近代西洋憲法は、人民と國家を対立するものととらえ、さらに國家権力の干渉を排除し、個人の自由を確保することを目指している。たしかに権力によって個人の自由や権利が理不尽に抑圧され蹂躙されることはあってはならない。しかし、日本國の國家観・君民一体の國體を西洋の絶対君主支配下の体制と同様なものとしてこれを排除し否定してはならない。

 ところが、『現行占領憲法』の立法意思は、まさに戦前の日本というよりも建國以来の日本の伝統を否定するところにあった。これは、「戦前の我が國は國民の自由が侵害され基本的人権が蹂躙された暗黒國家であった」という思想に基づいている。そして國家と個人とは相対立するものという思想に基づいて「基本的人権の尊重」を<憲法三原理>の一つとしたのである。

 人権尊重・個の尊重を全てに優先させることはかえって人権を蹂躙し、個人をの尊厳性を奪うことになるのは、今日の我が國の現象を見れば明らかである。今日の日本の教育荒廃・家庭崩壊・凶悪犯罪の増加の根本原因は、「自分さえよければ他人はどうなっても構わない」という観念が蔓延しているところにある。これは「個の尊重」「人権尊重」を絶対視して、共同体・家族・家庭と個人との共生を軽視してきた結果である。

 また「個人の権利」のみを強調する『現行憲法』の規定によって、祖先を敬い親に孝行するという日本國民道徳の基本が踏み行うことが困難になってきつつある。

 人間は余程の例外を除いて一人では生きていけない。人は多くの人間との関係性・共同生活があってはじめて生存できる。「人」は、自分自身であるとともに他者でもありさらには共同生活を営む場の全体のことでもある。それは「人」という言葉は、「人を馬鹿にするな」と言う場合は自分自身のことであり、「人の物を取る」と言う場合は「他者」のことであり、「人聞きが悪い」と言う場合は世間のことであることによっても分かる。

 人間が人間として生活するためには、多くの人々によって成立する共同体が必要不可欠なのである。したがって共同体としての國家をいたずらに敵視したり、國家を破壊すれば人間が幸福になると考えるのは誤りである。國家は人間の生きる場であり、人間が生きる一つの形式である。                         

國民意識の喪失とは歴史と伝統の喪失と同意義である。『現行憲法』第十三条には「すべて國民は、個人として尊重される」と書かれていて、歴史と秩序の中に生きてそれを次の世代にのこすということが書かれていない。日本の家は破壊されつつある。

 戦後日本は國家という観念を持っていたとは思えない。今日、國民という言葉よりも市民という言葉が使われることが多い。わが國民に國民としての意識がなくなり、國籍不明の市民という意識になっている。そして國家に対する責任と義務・犠牲が否定されつつある。市民とは國籍も祖先も歴史・伝統も喪失したということにほかならない。

 國民意識の喪失とは歴史と伝統の喪失と同意義である。國民とは國の伝統・歴史・形・共通の規範を認識している。伝統・歴史・形・共通の規範の中で人権・自由が真に生かされる。伝統・歴史・形・共通の規範を欠いた裸の人間の権利とは欲望である。

 我が國は「基本的人権の尊重」という美名のもとに、自己の欲望と他者の欲望とのぶつかり合いの世の中となりつつある。人々は、快と不快だけで生き、目に見える至近の距離の世界のみで生きるようになる。「欲望こそ全て」と考える。そして教育荒廃・家庭崩壊が起こり、悪平等が花開き、凶悪犯罪が増加している。

 社會全体の品格、國家の品格の中に自分があり得るということ、個と共同体國家との連結を一切見ることができない。日本列島に住む人々は、動物の群れと同じにようになり、國家も人も滅び去ることとなるのである。                   
                    
敗戦後日本を弱体化する目的で押しつけられた『現行占領憲法』の<三原理>は、日本の伝統精神・國家観・君主観・國體観を全く否定するものなのである。ここが問題なのである。『現行占領憲法』の<三原理>を否定しない憲法改正も自主憲法制定も意味がない。<三原理>の否定即ち現行憲法という無国籍憲法を全面否定すべきである。

|

2021年2月27日 (土)

『大日本帝国憲法』は実に日本の伝統に則った世界に誇るべき素晴らしい成文憲法


『大日本帝国憲法』の明治天皇の「告文」には、「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ」(皇祖天照大御神、皇宗歴代天皇の遺訓を明らかにして、『皇室典範』と『大日本帝国憲法』を成立し、条章を明らかに示し、皇室においては子孫が前例からはずれないようにし、臣民が天皇の統治を補佐する道を広め、永遠にこの憲法を守り、ますます国家統治の基を強固にして、日本国の民の生活の慶福を増進するべきである)と示されている。

『大日本帝国憲法』は、歴代天皇の国家統治の精神を成文化したものであり、天皇の国家統治の目的は国民の幸福を実現し増進するために制定されたといふことをお示しになっているのである。そして天皇国家統治の理想を実現するために国民すべてが、ご協力申し上げることか大切であると示されているのである。

さらに、『憲法発布の勅語』において明治天皇は、「惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ」(皇祖皇宗は、我が臣民の協力と補佐によりわが帝国を初め、造り、そして永遠に続いてきた。これはわが神聖なる皇祖皇宗の威徳と、臣民が忠実勇武にして国を愛し公に殉じたことにより、この光輝あるこの国の歴史の実績をのこしたのである) 。

「国家統治ノ大権ハ朕ガ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝ウル所ナリ。朕及ビ朕ガ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ、之ヲ行フコトヲ愆(あやま)ラザルベシ」(国家統治の大権は朕がこれを皇祖皇宗より継承し、これを子孫に伝へるのである。陳及び朕の子孫は将来この憲法の条章に従日、日本国を統治することに誤りのないやうにすべきである)と示されている。

わが大日本国は君民一体であり、日本国は、天皇の神聖権威と国民の忠誠心および勇武によって成り立ってゐるとお示しになってゐる。天皇は専制君主ではなく、また、独裁者でもなく、憲法の条章に従って国保統治されるといふことを明らかにお示しになっているのである。

『大日本帝国憲法』は実に日本の伝統に則った世界に誇るべき素晴らしい成文憲法である。『現行占領憲法』とは比較にならない。

|

2021年2月26日 (金)

昭和維新運動について

二・二六事件、五・一五事件をはじめとしたいはゆる昭和維新について少し書かせていただきたい。

大正末期から昭和初期も、今と全く同じで、支那大陸とアメリカとの関係をどうするかが、国家民族の行く手を大きく左右する問題であった。その上、ロシア共産革命が成功し、日本にも國體転覆を目指す「共産革命思想」が流入してきた。さうした状況の中で、日本の愛国者たちが思想的にも政治運動の面でも、苦闘し続けた。

戦前の維新運動・愛国運動に対する宗教の影響は非常に強い。神道国学はもちろんであるが、日蓮主義、大本教が甚大な影響を与えている。北一輝も西田税も日蓮主義を信奉している。

浄土真宗本願寺派の法主の大谷光瑞が、アジア主義者で、大本教の『日米戦争論』と共に、西田税に大きな影響を与えたといふ。大本教の「建て替え・立て直し」は昭和維新に通じる思想であり、『世界統一』も世界維新に通じる。

ところが大本教は大逆教団と断罪され徹底的に弾圧された。今日、大本教は勢力が衰えた上、維新勢力との接点はなくなっている。最大の日蓮系教団たる創価学会はご覧の通りの状況である。

昭和維新運動は、軍隊経験のある多数の国民で形成される在郷軍人会を味方に引き入れ戦力にする動きがあった。これが成功すれば大きな力となったであろう。しかし軍部がこれを抑えたという。

用語の問題であるが、ファシズム・国家主義・ナショナリズム・全体主義・右翼という言葉の定義をきちんとしなければならない。日本主義とか日本精神と言っても、その定義はなかなか難しい。日本精神・日本主義が、全体主義かと言うと決してそうではない。

混迷を深める現代においても、新たなる世界秩序建設のために日本が正しく貢献し参画出来得る原理を示すべき時なのである。

しかるに、東京裁判史観から脱却し得ず戦後体制を打倒解体し得ない日本は、とてもそのようなことを為しうる状況には立ち至ってゐない。これが最大の問題なのである。

日本も健全にして正統な民族主義・民族的自覚を強めねばならない。

今日の求められてゐる民族主義には、民族の伝統に回帰することによってその民族が幸福になるのみならず、世界の平和実件に寄与するといふ理想がなければならない。今日の日本に求められてゐるのも、日本民族精神による真の世界平和確立への貢献である。そのためには「日本国憲法」といふ名の「無国籍憲法」を一日も早く否定し消滅させなければならない。

民族主義はそれぞれの民族の中核精神への回帰と憧憬の心がその根幹となっている。日本建国の精神は世界平和の思想(八絋一宇・万邦共栄の精神)であり、日本民族の中核精神たる日本國體精神は、覇権覇道闘争の精神ではなく、米作りという絶対に平和的な人間の生産活動より生まれた精神である。地上においてお米を豊かに実らせるといふのが、日本天皇が神から授かった御使命である。

我等日本人はこの精神を発展させて、いよいよ混迷を深める真の全世界の安定と繁栄の実現のために貢献すべきである。それが即ち「この漂へる國を修理固成(つくりかためな) せ」との御神勅を奉行することなのである。


|

許し難い小沢一郎の皇室論・竹島論・韓国論

小沢一郎は、平成二十年七月十五日の記者会見で、竹島が日本の固有の領土であることを日本の教科書の明記することに関して、「(竹島について)日韓両国で考え方の違いがあり、しっかり話をすべきだ。それを避けておいて教科書に載せるとか載せないというたぐいは筋道が違う」と政府を批判した。竹島はわが国の領土なのだから、その事を教科書に記載するために、韓国と話し合いをする必要は全くない。にもかかわらず小沢がこのようなことを言ったのは、彼が「竹島は日本固有の領土ではない」と考えているからである。

さらに小沢一郎は、平成二十一年十二月、ソウルの国民大学で、「日本人の若者は漠然と他人に寄生し寄生虫として生きているとんでもない害虫だ」「もともと日本人の親達もどうかしている。日本人は動物にも劣る民族といっても過言ではない」「日本人はもともと民度が劣るから、君達韓国人のような優秀な民族の血を日本人に入れない限り、他人やアジアに寄生して生きる害虫日本人が増えるだけだ」「(日本の古代歴史についても)韓半島南部の権力者が日本の国家を樹立したもの」「日本は騎馬民族に征服された」「天皇・皇室は騎馬民族の子孫だ」などと言った。まともな日本人なら、外国に行ってこんな発言は絶対にしない。

小沢一郎は、習近平来日の時にも、天皇陛下・皇室を蔑にする許し難い言動を行った。彼には祖国愛も尊皇精神もないと断じざるを得ない。小沢一郎が帰化した人だと言うわけではない。また、私は、帰化した人・在日韓国朝鮮人だからと言ってその人を差別したり頭から嫌ったりするべきではないと思う。しかし、帰化した人であろうとなかろうと、日本天皇及び日本国に忠誠心を持たないばかりか、冒瀆する人々は断じて許してはならないと考える。以上小沢の発言は永遠に忘れてはならない。

小沢の言ったことこそヘイトスピーチ中のヘイトスピーチである。

|

«小沢一郎の「総理の靖国神社参拝」に関する発言は非道である